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社会福祉法人エクレホスピア
「めぐみの和」

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Fukuroi Kita Church 日本キリスト教会 袋井北教会
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内的革命」427

信仰は聞くことから与えられる神の賜物である。信仰によって恵みを多く受ける人は神の御言葉をただ知識の蓄えではなく、実践によって現れる具体的な知識を持つ。
 だから、人生の革命というものは真理を知ることから始まる。「キリストの故に、すべてを糞土のように思う」とは、パウロの人生の大転換を現す。キリストの絶大さをただ頭で知ったのではなく、全人格をもって知ったパウロの告白である。
 あなたの信仰の程度が、あなたのめぐみの水準を決める。御言葉を知って信じる程まで、あなたの考えも変えられ、それによって神の恵みを具体的に体験できる。
 信仰者は民主主義に生きるのではなく、神中心に生きる。私たちは神を変えて自分に合わせようとするのではなく、わたしが神の御心に合わせて従って生きる者でなければならない。従って、恵みは非常に具体的である。福音を知っても具体的に神の恵みを体験していないなら、常に知識のまま残り続ける。信仰の生そのものであり、生きるそれ自体である。あなたの人生の真中にキリストの信仰を据えなさい。


新しい歌をもって進もう」
2008年4月20日

  神の救いの恵みによって、イスラエルの民が捕囚の地バビロンから故国に立ち戻ったときに、なぜ神の民であったにも拘わらず、異邦人の手の下で苦しめられ、悲しさを覚えなければならなかったのかという問いに深い反省と悔い改めに入れられた。そこで彼らは神殿を再建した。しかしゼルバベル神殿とも言われる神の神殿の再建後に、彼らの歴史はどうだったのか。一言で失敗であった。なぜか。彼らはなぜ失敗したのか。三つの点から言える。
 1.感謝の回復がなかった。なぜ、救われたのかという自己確認がなかった。救われたこと、解放されてよかっただけで、なぜ回復されたのかを真剣に問わなかった。2.礼拝の回復がなかった。わたしを救い出してくださった神、解放の恵みに与らせてくださった神と出会いたい、つまり恵みを頂きたい切なさがなかった。3.神殿の回復がなかった。ゼルバベル神殿ができた。しかしまことの神殿回復はそこになかった。あなた自身が神の神殿であるその回復がなかったのである。「教会を建てる」のではなく、「教会を建てることのできる信仰者」になっていなかったのである。
 感謝の回復、礼拝の回復、そして神殿の回復、この三つが伴われる時、「新しい歌」が口から流れ出る。心からの感謝と礼拝と神殿が再建できるとき、あなたの人生に、あなたの家庭に、あなたの教会にリバイバルが引き起こされるのである。人間の知恵によって教会成長や信仰を論じないで、まず回復せよ!あなたの感謝、礼拝、そして神殿をまず回復せよ!

わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕う」 2008413

萱間の地で初めて礼拝をささげることを、神様はお許しになった。この地で礼拝を守る意味は、主の御心によるものである。
伝道開始40周年の2005年から具体的に導かれて、数多くの恵みを与えられたのは、新たなヴィジョンへの神の教会的召命による。それは、大きく二つの召命である。一つは、この地域、この日本、この世界に、主の栄光のリバイバルを引き起こす使命である。もう一つは、教会と福音が中心となる医療宣教である。
この二つの両輪は、キリストのお働きにおいても示されたものであり、キリストの福音による癒しと、人間の医療による治療による全人救済を目指すものである。言うまでもなく、医療宣教は福音宣教を基礎するものである。だから、第一に重要なのは、福音宣教であり、これ無しには、医療宣教は虚しいものとなる。従って、御言葉への正しい認識と知識、それを基礎とする正統な熱く燃え上がる信仰が柱となる堅実な信仰の共同体の形成を祈り求めるべきである。今日の礼拝が、新しい歴史への一歩であることを覚えよう。


神のみ前にまかり出て、み言葉に聞く
2008年46

 ペテロとコルネリオの出会い、これがどうして起こりえたのでしょうか。文化、差別、歴史、人種、宗教などを超えて、彼らが出会えたのは、ただ一つ、御言葉を聞きたい切なさと、御言葉を聞かせたい切なさであった。一言で言えばイエス・キリストという福音の故であります。
 イエスの故に、今までも大事であると思っていたことを捨てきることのできる信仰的勇気がそこにあったのであります。新しい歴史は、そのような犠牲の上に起こりうるものであります。
 さて、新しい歴史への準備はどうだったのでしょうか。コルネリオは、親族や友人を招いて、神の御前にまかりでて御言葉を聞こうと待っていたのです。『待つ』ことは、ただぼんやりして待つことではなく、心からの切実な願望をもって待つことであります。渇きを覚える者は、水一杯がどれほどの恵みなのかを知ります。渇きを覚えていない者にとって、それは捨てるに等しいものであります。
 御言葉は渇きを持つ者に潤いを与えて、疲れ果てて死んだ魂を生き返らせるのであります。御言葉への渇きはあなたの魂の特効薬であります。


み言葉が伴われるまぼろし
2008330

信仰生活、教会成長、福音宣教などにおける最大の敵は、外に在るのではなく、内側に存するとよく言われる。これは、信心深く神を信仰していると思っている者が、実はまったくそうではなかったということが在りうるという警告である。
「神がきめたものを、清くないなどと言ってはならない」という主の御言葉が示す意味は重要である。己自身の知識、習慣、経験、または慣わしによって、物事を判断していく当たり前のような信仰者の生活方式に対する主からの批判である。
わたしたちは何十年間、言ってみれば何の不都合無しに、前進も後退もないままに、やってきたことが真理であるかのように錯覚する時がしばしばある。
激しい変化に耐えられない信仰者になってしまっているかもしれない。聖書は「激しい変化」の連続でもある。十字架の出来事、復活の出来事、聖霊降臨の出来事、そして2000年間の不断の福音宣教の出来事などは、まさに劇的な変化の出来事である。それを感謝しながら、そのようなことを求めないずるい信仰を脱皮して、あなたの信仰を目覚めさせよう。

「宥めるキリストに、贖われるあなた
2008323

キリストはなぜ、死んだのか?なぜ死ななければならなかったのか。それは、罪の故、神から引き離されていた私たちが、神との結合に受け入れられるためである(コロサイ1:21-22)。キリストの死によって神は罪人である人を恵みの内に回復させてくださった(ローマ5:10)のであり、神と罪人との間における敵意を取り除いたのである。
さらに、死だけで終わるのではなく、そこからの復活によって、私たちを生ける望みへと導いてくださった(Iペテロ1:3)。死によって、罪は廃止され、死は消滅し、復活によって、義は更新され、命は立て上げられた。だから、復活のお陰で、キリストの死の効力が私たちにもたらされる。さらに、キリストの復活は、私たちが罪に死に、新たな命が与えられ、この命は誰も侵すこともできないものとして、永遠の命であることの保証、担保となったことである。従って、キリストの復活は、私たちの復活の最も確かな保証であり、担保である。
最後に、キリストの死と復活は、彼がまことの神で在られることへの確認であり、証しである。

「あなたに足りないところ2008316

主イエス・キリストによって用いられる人は、選ばれた人であるが、それこそ様々である。人種も、職業も、国も、民族も、関係ない。コルネリオはユダヤ人ではなく、ユダヤ人の支配していたローマ人であった。所謂異邦人と言われる人であったが、「信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、たえず神に祈る」ひとであった。これらが届いて、神に覚えられたのである。神に覚えられた人は、必ず救いの祝福に導かれる。特に、コルネリオが「午後3時ごろ」に主の御使いから言われる。教会が定められた祈り会において、主が現れたのだ。主が御自分の教会を愛しておられるから、その教会において語るのである。
そして、主は「ペテロと呼ばれる人を招きなさい」とおっしゃる。何という不思議であろうか。コルネリオのように信心深く、敬虔で、施しと祈りを常とする人に、もうこれ以上言う事なし!と言ってよいのではないか。あなたのそれは完璧だ、と言われない。だからあなたは救われたとも言われない。なぜ、彼にまた、「ペテロ」というものが必要であろうか。
御言葉であるキリストがなかったのである。キリスト無しの祈り、敬虔、施し、そして信心深さは、神に覚えられ、キリストへと導かれる手段に過ぎないことがココで分かる。キリストが無ければ、そのようなものは、実体のない虚しいもので終わる。あなたの救いのめぐみは「キリストのみに」ある。

 最後に、コルネリオの即刻的従順に目をとめるべきである。キリストへのめぐみには、明日は存在しない。「今!」のみである。今がめぐみのときである。

「イエス・キリストがあなたを癒す200839

使徒行伝には多くの奇跡や癒しが記されてある。その根本的な理由は何か。なぜ主は奇跡や癒しをお与えになるのか。その答えは「みな主に帰依した」や「多くの人々が主を信じた」ということのためである。主の福音が宣べ伝えられ、主の教会が形成されていく時に、特別に主がそのようなめぐみの出来事を与えてくださる。
ところで、歴史の中で、今も奇跡や癒しは行われているであろう。そのようなものと、聖書が言うそれと何が違うのか。この答えも同様に、主に帰依する人、主を信じる人が与えられるのか否かである。
ではなぜ今の奇跡や癒しには、主に帰依することが伴われないのか。この重要な問題の答えは、「キリストがあなたを癒す」ことである。キリストご自身がお癒しになるから、分かり易く言えば、その癒され起き上がった人を見れば、そこからキリストが見られ、読み取られ、感じ取られるのである。キリストがハッキリと現れるところが、聖書が言う癒しなのである。キリストが現れるのは、人を主に「帰依」させる十分な力となる。キリストのみに栄光あれ!


「こうして教会は・・・」2008年3月2日

「こうして教会は、…平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊に励まされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」。「こうして」とは一つの結果を現している。何の結果か。それはサウルの回心、アナニヤの従順、そしてバルナバの世話であると言える。この三人を教会の歴史に浮き彫りさせたのは、他でもなく神の聖定による摂理である。この神の摂理に、三人は結果的に従順に従ったのである。「こうして」とは、神の摂理への従順の結果である。
「こうして」、つまりその結果、平安が保たれる。神との関係が深められたことである。平安は神との関係による。その関係がしっかりと結ばれるとき、言うまでもなく、わたしたちの基礎はかたまる。神との正しい関係無しには、基礎は据えられない。そして、この土台から沸き起こるのは、神への恐れと聖霊の励ましである。この恐れに何も付け加えずに、そのまま受け入れよう。わたしが神を恐れる時、逆に神はわたしを励ましてくださる。恐れのないところに、神のご臨在はないであろう。そしてその総体的な教会の姿は人々への伝道になることに他ない。

「第一人者のための、第二人者の喜び」2008年2月24日
パウロが伝道者として神に選ばれて、イエス・キリストとの劇的な、しかし一方的な出会いによって、キリストの者となった。アナニアによる、多分3年以上の信仰的訓練を通して、パウロは宣教的説教を宣布することができるようになった。それにしても、教会の承認が必要であることは言うまでもない。エルサレムに上り、すでに使徒となった者たちによる承認を求めるパウロであるが、誰も認めようとしない。
 そこに主はバルナバを選んでおられる。このバルナバ、主の霊と知恵に満ちた穏やかな人である。パウロの伝道には、アナニアだけではなく、バルナバをも選ばれてあった。バルナバによがって、パウロはエルサレムの教会から認められる者となった。
 もし、アナニアと同様に、バルナバがいなかったとすれば、パウロの伝道人生はどうなったのか。バルナバは、パウロを立てる人であり、それは教会を立てることであり、それはさらに神の宣教を立てることであった。パウロのような人生もよいのであるが、バルナバのように、人を立てる人生もよいでしょう。第二人者になる喜びを味わいましょう。


「イエスはキリスト、神の子である」2008年2月17日

 パウロは、キリストと出会って後、アナニアの導きと指導の下、アラビアに行った。アラビアの何処なのか、そこで何をしたのか、幾日ほど滞在したのか、分からない。推測してみると、アラビアのシナイ山で、約40日間過ごしたのではないかと思われる。モーセが律法を与えられ、エリヤが祈り、キリストが誘惑されたところ、まさに律法の約束が与えられた所で、律法の成就の福音をどのように宣べ伝えるのかを祈り求めたに違いない。
 ダマスコに帰ってきて、約3年間そこの教会で信仰生活をした。福音のみ言葉への研鑽、約束を待っていた者が、その約束がすでに成就された福音を伝える者として持つべき御言葉の知識を学んだのである。「ただちに宣べ伝える」ことは、そのようなことを必要とされたのである。3年の御言葉への研鑽は、聖書の著者としての基礎を造るものでもあった。
 彼の口から最初に発せられたのは、イエスこそ神の子であるということであった。パウロ自身が今まで持っていた神の子に対するすべての期待を、イエスから見出したのである。旧約を通して、キリストを見ることができた。キリストを通して、旧約を理解することができたのである。イエスこそまことの神の子、キリストであった。この一言を伝えるために、パウロは3年以上の年月を費やした。それは、頭で知るものではなく、心に注がれた主との出会いと恵みを、頭において確信する作業でもあった。心にある熱い信仰を、他の人に福音として伝えるためには、そのような訓練が求められるのです。

「元どおり見えるようになり、元気を取り戻しなさい」2008年2月10日

パウロの偉大さはいくら言っても足りない。それほど神に愛され、用いられた人であっても、彼にはアナニアが必要であった。主はアナニアを通して語り、聖霊を与え、目から鱗を落とさせた。主は直接語らない。主のお体なる教会を通して語られる。
アナニアを通して、主はパウロの目から鱗を落とさせた。それで元どおり見えるようになったという。しかし元どおりであるが、仰ぎ見るようになった。イエス・キリストがまことの神として仰ぎ見られたのである。今まではそれが見えなかった。
そして食事を「取った」。まさにそれは命を取ったということである。単なる食事を食べたのではなく、命を取る、命を食べる日々となった。主のみ言葉こそ、まことの命のパンである。それを取るようになった。
結果的に、元気を取り戻した。それは強力な力に在って、力付けられることである。オリブ山でイエス様が祈られた時、み使いが力づけたように、外から力付けられる恵みに与る。パウロの出来事は、あなたにも起こったはずである。今も主はみ使いを遣わして、あなたを力付けておられることを信じますか。

「追いかける、逃げる人間」2008年2月3日
神様はニネベの罪をご覧になり、ヨナを遣わして裁きの言葉を告げさせようとされる。しかしヨナは神に拒み逃げる。しかし、神は彼を救い出し、二度目に、臨まれる。不従順であり、拒み続けるヨナを再び探し求める神である。神は選ばれた民を見捨てるお方ではない。常に赦して、受け入れてくださるお方である。
 ヨナはたった五つの言葉で、ニネベの民に告げる。それも一日だけ。しかし、その結果、ニネベの住民全体が悔い改めて、神に立ち返り、救われることになる。
 伝道の困難な時代に生きているとよく言われる。しかし、伝道には二つの側面が存在する。一方では、伝道は神がなさる神の働きである。伝道の結果は神によって生じられる創造的なものである。他方では、その神の業である伝道に、ヨナが必要であったことである。
 伝道は、神のみわざであるが、その神はヨナを用いて、それを実行される。神は今日も、あなたを必要としておられる。神は、あなたの告げる言葉を通して、その結果を生じさせる。宣べ伝える者がいなくて、どうして聞くことができるだろうか。


「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」2008年1月27日
「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」、これがパウロの福音であった。わたしの福音とは、非常に主観的な表現である。信仰とは、確かに主観的な面を持つ。後半の「いつも思う」ことは、主観的な行動である。自ら何かをしようとする自発的な行為は、聖書において求められる重要な信仰である。実に、私たちの信仰生活の問題の一つは、その主観性、つまり能動性が乏しいという事である。求めること、門を叩くことは、あなた自身がしなければならない主観的行動である。
  ところで、その「わたしの福音」とは「ダビデの子孫として、よみがえった」という客観的事実に基づくものであることが言われる。信仰の主観性は、聖書的事実を根拠にする客観的出来事に依拠しなければならない。信仰の「霊的」とは、聖書的根拠を無視する行為ではない。聖霊充満は、聖書のみ言葉による充満であるからである。パウロの私の信仰は、客観的に、歴史的根拠に基づいたイエスを、主観的にいつも思う能動的信仰であったのである。

「キリストにある恵みによって、強くなりなさい」2008年1月20日

本文には、強くなることとゆだねることが命令形として語られている。キリストに在る恵みに在って強くなることは、キリストを離れても強くなり得るという前提があるかのように見える。そうではなく、キリストに在って強くなることが求められている。キリストを離れても、強くなり得ることができるかもしれない。それはあなたから見てそうであって、キリストから見てはそうではない。キリストから見て、強くなることが求められる。
 次には、ゆだねることにつながる。牧師であり教師から聞いた信仰の教理を、別の人にゆだねることである。そうすることによってゆだねられた人が、また他人にゆだねることができる。伝道の原点が教えられている。委ねことは、信頼を基礎にする。信頼される人に、福音が委ねられる時、福音が広がる。
 さらに、キリスト者、特に伝道者は、兵役、競技者、そして農夫として譬えられている。司令官である神のみに従うこと、規定を守って協議する聖書中心であること、そして労苦することによってその産物を最初の与えられる農夫は、聖霊の実を与えられることである。神中心と聖書中心、そして聖霊によって喜びの実りが与えられる生活が求められている。強くなり、そして福音の教理を委ねていくことは、兵卒・競技者・農夫のように神のみに仕え、聖書に忠実であって、聖霊の喜びに与る事である。主があなたをそのようなめぐみに呼び出されておられることを感謝しましょう。

「良い忠実な僕よ、よくやった」2008年1月13日

主人は僕たちにそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントとまったく量の違うお金を渡された。そして5タラントと2タラントの僕は従順にその賜物をもちいて、2倍にして主人に返し、主人を喜ばせた。しかし、1タラントの僕は賜物を地に隠し、主人から受けた「賜物」を大事に思わなかった。その上自分が賜物を用いなかったわけを主人のせいだとまで言う。ここに多くの罪がある。主は私以上に私を知っていてくださり、私の能力に応じてふさわしく賜物を預けて下さいます。預けて下さるのは私を信頼してくださるからであり、愛してくださるからであります。
 この賜物を私たちがこの世における目的 -主の福音を宣べ伝えること― に用いて働いていくならば、もっと多くの祝福と恵を増し加えていって下さるでしょう。主なる神様はそういうお方です。共に私たちと働いて下さいます。
 今年、私たちの教会は全体で一つの働きができるよう、一人ひとりに役割が与えられました。この年末、「良い忠実な僕よ、よくやった。・・・多くのものを管理させよう。」と共に神様から祝福されましょう。(説教者:石飛)


「たましいを完全にし、不動にする錨である望み」2008年1月6日
2007年1月6日新年感謝礼拝は、昨年守られた事を感謝、今年与えて下さる神様の恵みを先取りして感謝と讃美をささげる礼拝であると言うことができる。特に、今年、主が私たちに与えて下さろうとすることに恵みに信頼していきることが何より重要である。
 主の約束を信頼して生きることは、希望を持って生きることであり、パウロの言葉で言うなら「目標を目指して走る」(ピリピ3:14)ことである。今年のあなたの人生の目標、家族の目標、教会の目標は何でしょう?それを最後までしっかりやり通すものであってほしい。本文には、「約束」、「誓い」、「必ず」、または「望み」などの言葉が頻繁に出ている。それは、神様があなたに約束を与えて、それを必ず成就してくださると誓われたことである。それを望むことこそ、真の望みである。
 だから、あなたの人生の「錨」はその望みである。この望みこそ、あなたの魂を今年も「安全にし、不動にする」ものであり、生きることの「力強い励まし」となるものである。今年、袋井北教会にとって、不動で、力強い励ましとなる望みは何であるのか。それの実現のために、愛する兄弟姉妹と一緒に一生懸命にやっていこう。


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