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Fukuroi Kita Church 日本キリスト教会 袋井北教会
Home/説教/2007後半/説教要約


「弱さを、身に負う神」20071230

「こういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成をめざして進もうではないか」。沈滞、スランプ、意気消沈、あるいは停滞などは、被害意識、否定的考え、比較意識、あるいは過去に縛れていることの原因が多い。聖書は、初歩的なことを後にして、前進することを呼びかける。 07年度、沢山の恵みを、神様から頂いたなら、その恵みを生かして、さらなる目標に向かって前進して、成長して行こうではないか。前進と成長する力はすでに与えられている。聖霊に導かれて、知恵を求めていくなら、その道は与えられる。 そこで聖書は答える。「更に良い事がある」。それは「同じ熱意を示して、怠ることなく、約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となる」ことである。初歩から離れて、前進と成長によって最後の恵みに与ることは、兄弟姉妹の交わりに生きることであり、そこから学ぶことであると聖書は言う。あなたが袋井北教会に導かれた理由は何でしょう。確かな事は、そこにあなたの人生の目的と目標があるということなのである。だから、この教会の交わりにおいて、あなたは成長し、その道が与えられるのである。

「最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けなさい
20071223

 今日は、洗礼式と入会式のめぐみが神様によって当教会に与えられている。今日の聖書は「最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となる」と言う。
 与えられた以上、それを宝物のように守り続けることは、私たちに求められることである。このような警告は、「あなたがたの中に・・・不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者」がいるからである。教会の中にそういう者がいるということである。
 しかし、生ける神を信じるという最初の決心から、離れていかないためには、「日々、互いに励まし合う」ことである。これは、教会の中の交わり、集い、祈りを大事にすることである。
 従って、教会の中には、「悪い心」を持つ者もいれば、あなたを「励ます」者もいるということである。
 つまり、教会における集いと交わりから離れることは、生ける神から離れることである。二人の兄弟が、集会をやめようとする人のようにではなく、常に教会の集いの交わりにおいて、励まされて、ますます生ける神の恵みに生きることを、心から祈り求める者になるように祈り求めよう。
 イエス・キリストは誰なのか?「神は御子を万物の相続者と定め、御子によってもろもろの世界を造られた」とある。創造の実質がキリストであり、万物の主

「御使いたちの名にまさる名2007129

 イエス・キリストは誰なのか?「神は御子を万物の相続者と定め、御子によってもろもろの世界を造られた」とある。創造の実質がキリストであり、万物の主人である。「いったい、この方はだれだろう。風と水も従うとは」と不思議に思われたのは、彼が創造者であるからである。だから、イエスは「栄光の輝きであり、神の本質の姿」である。しかし、この世の人々は、この神であられるイエス・キリストを知ろうとしない。というのは「この世の神が不信の者たちの思いをくらませた」からである(IIコリント4:4)。世の神々に操られ、心が濁られて、真の神を見ることも、見ようとしないのである。そこからの解放、真の自由が必要である。なぜなら、その終局は死だからである。
 キリストは御言葉をもって万物を保っておられる方であり、罪をきよめることのできるお方であり、今も神の右に座しておられる神である。保つとは支えて何処に導くことである。だから、あなたをきよめて、御言葉によって導くお方です。すべての権能をもっておられるから、今から後、どんなモノをも、あなたをキリストから引き離す事はできないのである。


神の御子を知ろうとしない者」
2007122

待降節を迎えました。主イエス・キリストがこの世に来られるのを待つ季節です。無論、すでに来られてそのなすべき贖いと救いの業を成し遂げられました。待降節を迎えると、常にイエスがこの世になぜ来られたのか、というすでに分かっている問いを問い直してみる習慣的な問い掛けをします。
 なぜでしょうか。答えはお分かりでしょうね。「罪」の問題です。それを「断絶」とも言います。神と私との断絶です。私とあなたとは本来、神に通じ合って、神から来る真の糧と命の水によって生きるべき存在です。が、その神と私との間に「断絶」が生じ、その給食と給水が途切れてしまったのです。結局、人間は本来の姿から離れた異質的なものとなってしまったのです。重大な問題(罪)が生じたのです。何とかしないとこの伝染病に誰もが死んでしまいます。神とあなたとを遮って中垣を取り除き、そこに円満な通路を造るために、キリストが来られたのです。唯一の仲保者です。

 さらに、主にあって新しくあなたを造り直してくださるためです。ただ罪の問題を解決するだけではなく、二度とこんな問題に陥らないように、ただ新しく造ったのではなく、キリストにあってあなたを造り直してくださるためでした。

あなたは、わたしが選んだ者である」
20071118

 神に選ばれるとは、一体どういうことでしょうか。選びの教えは人によって、確信を与える恵みであり、疑いの躓きにもなります。パウロは救われてから、神様がどれほどの恵みを用意して与えて下さろうとなさったのかを悟り、「天地の造られる前から選んでくださり」と告白しています。この告白は、彼がイエスを信じるようになってから、恵みによって悟られた結果であって、原因ではなかったのです。神の選びは、人知を超えたものであるから、神からの恵みによってのみ知りうるものであります。救われる前にそれを論じることは、無意味であり、躓きとなります。
 マタイ伝15章にカナンの女が、主よ、ダビデの子よ、私をあわれんで下さいと言った時、イエスは彼女を退くような発言をします。この段階では、彼女は選ばれてないかのように見えるところです。しかし、何度もお願いをしたら、イエスは「あなたの信仰は見上げたものである。あなたの願いとおりになる」と言われます。ここに選びがあると言ってよいのです。選びは、神様を必死に求め、愛していく中で確認できるものであります。そこで選ばれるのではなく、その信仰において、自分の選びを確認できることであります。