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「幸せを見付けた者」 2007年6月24日
ルカによる福音書19章1-10節
イエスについて、あるいは神についてではなく、イエスに出会い、神と出会うことが大事である。キリストについて話を聴くことはあなたにとって無益である。ザアカイは“ついて聴く”ことから、“直接出会う”恵みへの転換を試みる。彼はイエスと出会うために、幾つかの障害物を乗り越えなければならなかった。
まず心理的障害である。ユダヤ人でありながら、ローマに仕えて税金を取立てる収税人であるから売国者、不正腐敗などの非難から来る心理的障害。身体的障害。お金持ちではあったが背が低い。背が低いというコンプレックスがあり、外に出ることを好まない。環境的障害。イエスへの道は群衆に遮られた。親戚、友達、また隣人などの妨害はある。
このような障害を乗り越えて「木の上に登った」時に出来事は起こった。障害物を克服して登った時に、そこにあるのはキリストの御声であった。イエスの方から先に声をかけられた。それこそイエスがわたしの心に、私の家に来られることである。これこそ神の不可抗力的恵みである。恵みは神から来る。しかしイチジク桑の木に登ったときです。これこそ今まで味わった事もない幸せであった。すべてが満たされることが起ったのである。
「この世を変える人々」 2007年6月17日
ローマ人への手紙9章1-5節
ステパノは執事であるが、聖書は福音宣教の殉教者としての彼に注目を注ぐ。教会のディアコニアの究極は福音宣教である。福音はよき知らせである。この世の中でただ一つの、あなたを生かすことのできるものである。人を生かし、変えさせる力が福音である。40年間歩けなかった人を歩かせたのは福音の力である。だから、福音を伝えないなら、わざわいである。死に掛けている人を助けないのは、その人を殺すことと同様である。誰にでも死の症状は現れる。あなたが悩み、病む自体が死の症状である。それでも人間はその病気を治そうとしない。痛み止め薬を服用しすぎて、その病気を忘れている。福音を宣べ伝えることは、人を死から命に変えることであり、この世を変えることである。
私たちは練習していきることができない。明日のことを生きてみて、良かったら生きていくことはできない。一回限りの人生、その最後は審判が待っているだけである。あなたの愛する人は今大丈夫でしょうか。その人の人生の向きをあなたのために死んで下さったイエス・キリストに合わせましょう。
「天の門が開かれる祝福」 2007年6月10日
使徒行伝7章54-60節
キリストを信じることは、祝福だけではない。イエスは苦難と死を通られた。ステパノも聖霊と知恵と信仰に満ちた者であったが殉教されねばならなかった。なぜ艱難か。罪によることもあるが、神の摂理によるものが多い。ステパノの死は神の深い計画からのものである。この世の果てまで広がるべき福音がエルサレムに停滞していた。それを超えさせる動機は、ステパノの死であった。
しかし彼の人生は意味のない神の道具となったのではない。(1)彼は天使の顔であった。これは多分、後にパウロのクリスチャンたちへの証しによるものであろう。打ち殺す人が見ても、殺されつつも天使の顔であった。(2)天の門が開かれる祝福に与る。天の門はすでにあなたのために開かれてある。しかし開かれてあるのが見えない。聖霊によらなければ見えない。ステパノはそれが見えた。(3)キリスト・イエスが立って迎え入れてくださる祝福。あなたのために座しておられない。立ってあなたを見守る。あなたのために主は立って、応援しておられるのである。(4)永遠に死なない祝福に与る。眠りについたのである。神は愛する人に眠りを与える。「息が絶えた」(5:5)ことではない。眠りつく。それで目が覚めて主と共に生きるのである。
「教会が前進していく中で」 2007年6月3日
使徒行伝6章1-6節
教会にも問題は起こる。教会には問題は起こらない事はない。それでも教会は歴史を貫き通している。なぜか。人々は問題が起こると問題そのものを解決しようとする。なぜ解決しようとするのか、それはその問題を解決したいから、というのが一般論理である。
教会が問題を解決する方式は、「神のみ言葉を差し置く」ことができないので、問題を解決する方式である。み言葉をないがしろにする事ができないから執事をたてたのである。教会からディアコニアの思想は始まった。病院、学校、福祉など。しかし今やそれらは教会から離れている。神のみ言葉中心であるべき仕事が人間中心の仕事となったのである。この世の活動は人間・私中心である。初代教会は神のみ言葉中心であった。
御言葉は創造の力があり、あなたに新たな命を与える贖いの力がある。真に我らを生かすものはみ言葉である(ヨハネ6:63)。この世は未だに問題を解決できていない。教育の問題、病気の問題、死の問題など、この世は頑張っているが問題は依然と残っている。そこに主がおられない、問題の核心にみ言葉が生きていないからである。あなたが務めを持つ事、職業を持つ事は、単純に生きるためではなく、主のみ言葉に生きるためである。
「あなたの幸せのために」 2007年5月27日
詩篇107篇4-9節
この世の人々は、「人無き荒野をさまよう」のが人生であると言う。周りを見渡しても、そこには誰もいない。常に、一人である。だから一人で、この荒野のような世を生き抜くために必死に現実と戦う。結局は現実に囚われた身となって希望もなく、生きる未来の約束に盲目になってしまうのがキリスト無き人々である。しかし、すでに世に勝っておられる主は、御自分の民カナンという約束を与えられた。つまり、人間は、その約束から目を逸らす時、私たちは孤独に襲われるのである。
主は愛する者に勝利と望みを与え、その希望を仰ぎ見つつ生きるようとする。そしてすべての敵から守ろうとして、あなたの周囲に「火の戦車と火の馬」を満ちさせて、その希望に生きるように力を与えておられる。神の約束も、あなたのための火の戦車も、火の馬も見えないのは、現実の虜になっているからであろう。
万軍の主なる神は、あなたが救われ、恵みと望みの内に生き、やがて主と共に神の御国で永遠に生きることを楽しみにしておられる。「主を待ち望む者は新たな力を得る」(イザヤ40:31)。待つ事は信頼と愛がなければできない。主の約束を信じれば、毎日新たな力によって、あなたは強く生きる事が出来る。
「私はあなたに勝利を与える」 2007年5月20日
サムエル記下8章1-18節
人生は戦いの連続である。次々と立ち向かわなければならない問題が出て来る。激しい競争社会に生き残るためには、勝利の人生を求めなければならない。勿論、勝組と負組に二分化して理解しようとする現代的理解ではなく、真に生きるという意味において私たちは戦いを受け入れ、勝利の人生を願うべきであろう。このような肯定的人生観において勝利の恵みに与った人は沢山いる。ダビデが典型的例である。なぜ彼は勝利の人生を歩む事ができたのか。1.神が共におられることを信じた。少年であるにも拘らずゴリアテを恐れる事もなく、神のために戦った人である。それはただ心で神が共にいることを思っていただけではなく、それを信じて行動する人であった。「万軍の神、主が彼と共におられたから、彼はますます大いなる者となった」(5:10)。2.神に問う信仰をもっていた(5:19,23)。神に問うてから決める。人生の行路には決断を迫られる時が多い。その時、神に問い続ける信仰が求められる。3.神のご臨在を絶対的に求める信仰であった。6章は神の箱へのダビデの愛着心が現れる。あなたの人生にも、家庭にも、神をそれの主人として迎え入れることは如何に祝福に満たされることでしょう。4.神の神殿を求める信仰。7章では「私は香柏の家に住んでいるが、神の箱はなお幕屋にある」から始まる。ダビデのこの純粋な信仰はどんな形によっても批判されてはならないであろう。このような生き方が彼の人生を勝利に導いた原動力であった。世界が神から与えられたものであり、そこに戦いがあるならば、当然のごとく神を信じる信仰によって生きるべきであろう。信仰を持って立派に戦い抜こうではないか。
「いつも、どこでも、あなたから離れられない」 2007年5月13日
使徒行伝5章33-42節
この世はなぜキリスト・イエスによる福音を嫌うのか。「あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、イエスを導き手として救い主として、御自分の右に上げられた」という福音。簡単に言うと罪を赦して新たに生きる喜びを与えるのが福音である。であるのに、福音は常にこの世から迫害される。では、この世はこの福音よりももっと力あるものなのか?福音を迫害している人をみよ。彼らは40年間宮の門の前に座っていた人に人を生かし再び真に生きる希望を与え喜ばせる事ができたのか?できなかった。40年間自分たちの前にいた足の利かない人に何もして上げられなかった。しかし、福音は彼を生かすことができ、歩く喜びと希望を与えることもできた。それでもこの世は福音を迫害する。彼らは怒りに燃えて福音を殺そうとする。この殺害の最中に福音は置かれたのであるが、使徒たちはそれに足るものとして、漏れなく主の御言葉を宣べ伝える。今、かたちは違うが、私たちもそのような迫害の中にあって福音を信じている。あなたの福音活動によって横の人も、また次世代の人も、主に導かれ、福音は永遠に続くのである。
「人に従うよりも、神に従う」 2007年5月6日
使徒行伝5章17節-32節
福音に対するこの世の態度は「気を苛立て」(4:2)、「嫉妬の念に満たされて」(5:17)、「激しい怒りのあまり殺そう」(5:33)益々エスカレートしていく。
使徒たちは二度目、捕らえられ獄に入れられた。弟子たちが福音を宣べ伝えてから間もなく迫害は始まった。福音は迫害の道であったが、弟子たちは逃げようとしなかった。神は生きておられ彼らを助け出した。福音が迫害の連続であるにも拘わらず、福音を「漏れなく、人々に語らせる」ために奇跡的救出を与えられた。福音を伝えれば伝えるほど、迫害が深刻になっていくにも拘わらず、神は弟子たちに福音を語らしめる。
奇跡的癒しも、治癒も、救出も、すべて福音を宣べ伝えるためであった。弟子たちも神に従った。福音宣教すれば、自分たちの身に何が起こるかわからない。それでも彼らは語り続ける。「夜明けごろ」から教えを始めた。
この世の迫害は昔も今も変わることなく続く。この世の人々は「あの名を使って教えてはならない」と厳しく圧迫する。しかし弟子たちは、「人間に従うよりは、神に従うべきである」と告白し、神の栄光を褒め称えた。「罪のゆるしをあたえる」神の力である福音を迫害の中で宣べ伝える袋井北教会でありたい。
「ヤコブは何を見たのか」 2007年4月29日
創世記28章10-22節
「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」(ローマ9:13)。しかし神に愛されたヤコブの人生はバラ色のものではなかった。逃亡する人であった。逃れる人生の中で彼は夢を見た。その夢で彼は何を見たのか。
地の上にたって天に達する梯子を見た。天に達しようとする人間の試みはいつもある。典型的例はバベルの塔である。しかし人間は自力で天に達することはできない。それは神によってのみ与えられるものである。つまりキリストである。キリストのみが天と地に繋ぐ唯一の梯子である。この方によってあなたは天に導きいれられる。
次はその梯子を上り下りする天使たちである。天使は神に服従する被造物である。そこから私たちはこの梯子の真正性を見る。つまりこの道のみが確かな命への道であり、天への道である。
最後にヤコブが見たのは、立って言われる主を見たのである。主は常に御言葉を語るお方である。だから主は常にあなたに語りかけるお方である。御言葉に聞くことは、神と出会うことである。その御言葉にキリストがあり、そのキリストこそが真正性をもつ、唯一の救いの道である。そのキリストは常にあなたに語りかける。それによって神に出会う。
「放蕩息子-自分勝手な人生」 2007年4月22日
ルカによる福音書15章11-32節
なぜ次男はお父さんから「分」をもらおうとしたのか?人の所有欲は限りがない。物であれ、人であれ、何でも人は自分のモノにしようとする。そこに人間の悲劇の始まりがあると言ってよい。
なぜ彼はお父さんの所から「遠くへ行った」のか?「分」をもらうところまでは、出て行く気は無かったかもしれない。しかし人はちょっとしたものでも自分の「もの」があれば、それを拠り所にして、神から離れようとする。アダムにほんの少しの善悪を知る知識というものがあった時、神から離れようとした。
一人では絶対生きて行けないという自明な事があるにも拘わらず、人間は干渉されたくない、支配されたくなくて離れる。恵みによる支配であっても、支配されたくないと人間は思う。
では「本心」にいつ立ち返られるのか。人はほぼ「死」の状態(17)になって初めて神の存在と神と共にいきるめぐみを悟る。本当にほぼ死ぬ状態に至らない限り神を求めない。兄は何なのか?父を愛する心もない。神に求めることもしない。神を自分の生活に生かそうとしない。
弟は悔い改めて立ち返ってくる人への父の無限的愛を表す。しかし兄は、習慣的信仰は持っていたとしても、心から神を愛して仕えない。
「教会には主の不思議なみわざがある」 2007年4月15日
使徒行伝5章12-16節
教会が起こされ、歴史の場でその具体的な姿を現す始めた時著者は「教会」という用語を使い始めた。その直後「使徒たちの手によって」多くの奇跡としるしがあったと書き記した。教会が始まろうとする時にそこには主の恵みによって奇跡がある。不思議な業が教会には存在する。この事実を確認し、感謝をもって受け止め、私たちの教会にも奇跡としるしが与えられることを確信をもって祈ろう。
では教会を建てる時、神は誰の手を通して奇跡を行うのか。「使徒たちの手によって」である。キリスト・イエスが教会を建てるために任命された「使徒」による。言うなら、教会を建てようとする人の手を通して奇跡は起こる。教会を建てようする教会中心的信仰者が仕えていく時に、奇跡は必ず彼らを通して現れる。アーメン。
では教会を建てようとする人はどういう教会を目指すべきかを聞かなければならない。そこに本当の奇跡があるからである。それは最初の奇跡を見れば分かる。足の聞かない人を歩かせたペテロとヨハネが“行ったことではなく、あげたのは”「イエス・キリスト」であった。つまりキリスト・イエスをあげる教会を建てなければならない。キリストを与えられる教会を建てるなら、そこには奇跡としるしが伴われる。
しかしキリスト・イエスがなければ、イエスを持っていなければ私たちはキリストを与えることができない。「あなたにキリストがありますか?あなたはキリストをもっていますか?」という問いへの答えはあなたの持ち分である。
「あなたのためによみがえられた主」 2007年4月8日
マタイによる福音書28章16-20節
主を否認した弟子たちに復活の主はガリラヤに行きなさい、そこで私と会うであると言われます。裏切られてもイエスは弟子たちをお見捨てにならなかった。なぜガリラヤか。12名中11名がガリラヤ出身である。彼らはそこでイエスと出会い、イエスの弟子となった。まさに原点に戻ってやり直そうと言われるかのように聞こえる。そうかも知れない。
しかし主はガリラヤの山に行きなさいと言われた。「山」は何処の山か分からない。しかし、主は裏切った弟子たちと「山」で再会することを望まれる。「山」は何処であり、何を意味するのか?5章の山上の説教が語られたのはガリラヤ付近の山である。新しい律法であり、福音であった。まさにモーセが神から与えられた神の御言葉をシナイ山で語られたが、それの完成が山において行われた。 つまり、山は説教があるところであり、神の御言葉が語られるところである。さらにキリストの変貌も山の出来事であった。「これに聞け」(17:5)。つまり、従順の恵みが求められるところが山である。あなたは復活の主と出会いたいのでしょうか。もしそうであれば、「山」に行くべきです。それは他でもなく主の御言葉が語られる「教会の説教」でありそれに従うあなたの「従順」にあります。
「あなたのために苦しまれる主」 2007年4月1日
マタイによる福音書26章20-30節
イスカリオテ・ユダはイエスを裏切った(渡した)。なぜか。聖書は彼に「サタンがはいった」(ルカ22:3)という。サタンが入りやすかったのでしょうか。誘惑されやすい信仰者はどういう人か。例えば、ヨハネ12章に現れるように彼はイエスへの愛と貧しい人への愛とが区分できない、区別できない、何が本質なのか分からない現実主義者であった。貧しい人を助ける・愛・親切・優しさ・同情することなどはキリストの本質とは違う。神の愛はまずあなたの罪のために御子をお遣わしになったところにある。さらにユダは12弟子の中で賢かったからでしょうか「財布をあずかっていた者」であった。この世の知識とこの世の愛の基準でキリスト・イエスに仕えることはできない。イエスは彼によって、誰に渡されたのか。それは「罪人らの手に」である。あなたが罪人ですか。主はあなたに渡されました。そして主は言われます。「取って食べよ。私の体である」(26)。キリストはあなたの手に渡されながら、言われます。私の体を取りなさい。そして食べなさい。罪人であると告白する者に主は渡されます。そしてその人のみが主を食べる事ができるのです。
「あなたに対する神の執念」 2007年3月25日
ルカによる福音書15章8-10節
10枚の銀貨から失われた一銀貨を探し求める女にとって、その一枚の銀貨はどういう意味があったのだろうか。どれほど重要であったから、それを見付けると盛大な晩餐を催したのだろうか。確かなことは、銀貨1枚にすぎないにしても、彼女にとっては何よりも貴重なものであったことである。それは結婚の指輪のようなものである。一人の人を愛して、一生涯一緒に生きることへのしるしとしての指輪は値段を付けることの出来ないものである。実にキリストはあなたを探し求めたのである。あなたは以前失われたものであり、それでくらやみの中に生きていたものであった。失われた存在であったから、本当の自分の持ち主、自分の創造主から離れていきる存在であった。しかしキリストは自分の命をささげるまであなたを探し求めた。それで、キリストはあなたを見つけたのである。今や、あなたはキリストにとって花嫁であり、指輪である。あなたの故に、天におられる父なる神と共にキリストは天上の晩餐を催して喜ばれているのである。銀貨は常に人々に見せるような形でもっていたから、キリストも、あなたを他の人々に見せたいのである。あなた自身がキリストの自慢であることを忘れないようにしましょう。
「あなたが愛する人は今どこにいるか」 2007年3月18日
ルカによる福音書15章1-7節
パリサイ派や律法学者が居たイエスの前に急に、収税人や罪人が話しを聞きに来た。二つの異質的なグループの人々を前にしてキリストは、失われた一匹の羊の譬えから始め、幾つかのたとえを話される。結論は、一人の失われた者が悔い改めるならば天におられる神はどんなに喜ぶであろうかという。つまり、イエスは悔い改めをするように人々に宣べ伝えている。悔い改めようとしない、それを必要としない者よりも、常に神の前で罪を悔い改めて、主の恵みを求めることこそが真に生きることであるという。
悔い改める者は誰か。何らかの理由で羊飼いから離れたものである。羊の声に聴き従うよりは目の前にあるものに執着していき、結局別の所に行ってしまったものである。そして自分の力ではなく、神の力によって生きていかなければならないと悟った人である。そこに主が立ち寄り、ボロボロになっていた迷いの一匹を肩にのせて「本家」本来自分が居るべき場所に、持ち帰ってくださるのである。主があなたを探したように、あなたが愛する家族や友をも探しておられるのである。あなたが愛する人は今何処にいるのか。イエスに告げなさい。
「はじめるあなたに」 2007年3月11日
使徒行伝4章32節~5章11節(朗読:使徒行伝5章3-4節)
歴史上教会が具体的に現れ、教会の時代が始まっていく中で、聖書はアナニアとサッピラの事件を書き留める。教会形勢に伴い神の恵みを感謝する献金が増して行く。全財産、あるいは畑を売って捧げる人もいた。本文に、バルナバとアナニア(妻サッピラ)という二人が対照的に記されている。両者は財産を売って献金しようとするが、前者は約束通り捧げるが、後者は代金をごまかして、一部だけ捧げる。「ごまかす」という言葉は、あのイスラエル民がカナン時代に突入する際、アカンが奉納物「取った」という言葉と同じ。教会時代の始まりの最中にアナニアが「金銭」の問題を起こし、カナン時代の開始の最中にアカンが「金銭」の問題を起している。つまり、新しい時代が始まる際に、聖書は「献金」が如何に重要であるかを指摘している。お金は「ある意味で人間にとって一番大事な物」であり、ある時には命さえも奪う。だから「あなたの宝のあるところにあなたの心もある」とさえイエス様は言われる。献金は神のものである。無い事と惜しく思う事は真に違う。著者は教会員の本音の問題を指摘する。宝のあるところに心があるなら、心から礼拝を捧げることを一体どういうことか。神と金、両方に仕えることはできない。
「大胆に生きる」 2007年3月4日
使徒行伝4章31節
ペテロとヨハネは福音伝道の故に牢屋に監禁され、二度と伝道しないように脅かされてから、「仲間」に戻ることができた。つまり、「仲間」はまだ“そこ”に居続けていた。2-3ヶ月前イエスの逮捕と死の出来事が起こった時、弟子たちは皆逃げたが、今度は逃げなかった。なぜか。逃げなくてもよい、という自信・確信・大胆さがあったからである。
それは何処から来たのか。聖霊に満たされて聖書に聞いたからである。ペテロとヨハネの報告を受けるや否や弟子たちは忽ち詩篇2篇の成就であることを悟って歌った。聖霊に満たされて弟子たちは祈りばかりでもない、讃美ばかりでもない、神の御言葉である聖なる書に耳を傾けていた。一貫して聖書が言うのは、「聖霊充満は御言葉充満のほかない」ことである。聖霊によって御言葉に聞く時にリバイバルの兆しが現れ、神の力が具体的に見えてくる。
弟子達が忽ち神を創造主として褒め称えた事は、歴史と世界を創造し、導き、摂理しておられる神だから今の試練も勝利に終わるに違いないという告白である。この世の激しい波が押し寄せてきても、大胆に生きることのできる恵みは、あなたの神が「創造主」であるという信仰の確信から来るのである。
「あなたの断る理由は何でしょうか」 2007年2月25日
ルカによる福音書14章15-24節
神の家を「いっぱいになるように無理やりにひっぱってきなさい」。神には人間に救いを与えなければならない必然性など一つもない。しかし「無理やりに」でも救いに与らせようとされる。人を愛する神とは、まさにこのことであろう。しかし招待されていた人々はこの世にとても忙しくしていて、それを拒む。人間は、神の愛などは安売りに出すものにすぎないと考えている。 人生のさなかで理論や理屈、この世の忙しさよりも、ある意味でそんなものはどうでもいい、ただ「神の愛」が必要であると切実に体験した者こそが、その神の愛にふさわしいかもしれません。言うなら、足の不自由な人などは自分の力では神の御前に来られない。「足の不自由」という“他者”の力が神の家にいく動機となった。私たち自身の中には神に行かせる「他者の力」が存在している。それに気付く人も気付かない人もいる。
だから、それに気付かない人、全然関心のない人でも、神様は愛するからこそ「無理やりに」でも引っ張って来させようとされる。わたしたちは神にとって「無理やりに」でも来させられなければならない存在です。それほど愛されているのです。それを拒む言い訳ほど悲しいことはないのではないか。
「この世の論理とキリストの論理」 2007年2月18日
マルコによる福音書8章27-30節
神の家を「いっぱいになるように無理やりにひっぱってきなさい」。神には人間に救いを与えなければならない必然性など一つもない。しかし「無理やりに」でも救いに与らせようとされる。人を愛する神とは、まさにこのことであろう。
しかし招待されていた人々はこの世にとても忙しくしていて、それを拒む。人間は、神の愛などは安売りに出すものにすぎないと考えている。
人生のさなかで理論や理屈、この世の忙しさよりも、ある意味でそんなものはどうでもいい、ただ「神の愛」が必要であると切実に体験した者こそが、その神の愛にふさわしいかもしれません。言うなら、足の不自由な人などは自分の力では神の御前に来られない。「足の不自由」という“他者”の力が神の家にいく動機となった。私たち自身の中には神に行かせる「他者の力」が存在している。それに気付く人も気付かない人もいる。
だから、それに気付かない人、全然関心のない人でも、神様は愛するからこそ「無理やりに」でも引っ張って来させようとされる。わたしたちは神にとって「無理やりに」でも来させられなければならない存在です。それほど愛されているのです。それを拒む言い訳ほど悲しいことはないのではないか。
「神に従うこと、人に従うこと」 2007年2月11日
使徒行伝13-22節
人は変えられるのか?生まれつきの足のきかない人が歩き回ったり踊ったりして神を讃美したのは、一つの変化、つまり再生を現す。ペテロもヨハネも変えられた。再生された。どうして変えられたのか?前者を考えればすぐ分かる。それは「キリストの名によって」である。キリストの名は呪いではない(使徒19:13参照)。それはキリストの臨在、力そのものである。人はキリストの名によってのみ変えられる。
キリストの名によって変わった者は神のみ言葉を宣べ伝える。聖霊充満は宣教と常にセットになっている。奇跡や癒しによって人は変わらない。人はみ言葉によって変えられる(4節)。
キリストの名によって変わった人は、世に勝つものである。この世の知者たちの前で憚ることなく、大胆に語る。だから世は驚く(13節)。すでに主は勝利を約束しておられる(ルカ21:12以下)。
キリストの名によって変えられた人は、神中心に生きる。人に従うよりも、神に従うのが正しいという(19節)。キリストによって変えられた人は神中心、神の論理で生きる。結局は、それがこの世に勝つことである。「罰することができなかった」(21)。神中心に生きる者は、常に世に勝つものである。
「家造りらに捨てられた石」 2007年2月4日
使徒行伝4章1-12節
福音が宣べ伝えられる時、神の恵みによってそれを信じる者がいれば、拒否する人もいる。後者の場合、その殆どが自己先入観、偏見、自己守備型である。例えば、サドカイ派は理性から見て、復活はありえないという先入観を持っている。彼らは「敬虔な合理主義者」、または「敬虔な理性主義者」である。こういう人が常にいるから、教会は敬虔な様子(form)をしながらその力(power)を失っている(IIテモテ3:5)。実は、イエスを信じていること、自分こそ「奇跡」だと思っている人はあまりいない。この世の論理が蔓延っている教会から見れば当然かもしれない。
この世の論理による専門家たちはイエスを捨てた。しかし神の論理から見れば、イエスは「すみのカシラ石」である。神の論理とこの世の論理は正反対である。あなたが生きる論理は、神の論理なのか、この世の論理なのか。
もし、この世の論理に生きるなら、あなたは真のあなたの人生を建てる時の「すみのカシラ石」なるキリスト・イエスと出会えないであろう。この世の専門家にあなたの人生を委ねることは、崩れることである。崩れないあなたの人生を建てるために、変わることのないカシラ石イエス・キリストが必要である(12)。 |