2008年
「主はわたしの魂を生き返らせ」2月1日
「主はわたしの魂を生き返らせ、み名のために正しい道に導かれる」。魂を生き返らせるのは「主」である。「主」のみが生き返らせることができる。その主が他でもなく「わたしの魂」という限定的な恵みを施す。
あなたの魂を「生き返らせる」とは、悲惨な状態、苦しい状態から連れ戻す、リフレッシュする、慰めるということである。連れ戻して慰めるのであるが、言い換えると「正しい道に」導くことである。「正しい道」とは、「繁栄」(箴言8:18)の道である。押さえつける悲惨な状態から順境や幸運の道に導くのである。
聖書の中心的なメッセージは人を生かすことであり、魂を生かすことである。死んだ者を生き返らせるのが、聖書が言う福音である。
主なるお方は、あなたを生かそうとする熱情を持っておられる。だから、枯れた骨の生き返りがあり、「腹から生きた水が川となって流れ出る」。
ナイン(ルカ7)とは、「喜びの町」である。その喜びの只中に悲しみが生じる。喜びと悲しみが重なり合う真中を切り抜いて入って来られるイエスの姿がある。主はその悲しみを癒し、喜びの実態をお示しになったのである。
「天の門が開かれた者」1月25日
エゼキエルの置かれた状況は捕囚の地、囚われの身であった。希望を持つことにはあまりにもほど遠い現実であったのである。希望よりも、この息詰まる暗黒のような実況を耐え忍ぶことに精一杯であった彼であろう。
さらに彼は祭司であった。神の沈黙の中で、どのように礼拝を捧げるべきなのか?どのように神礼拝へと人々を導くべきであろうかと思い悩む日々であったであろう。平和でないのに、平和であると言っていた者たちとは違っていたエゼキエルであったからこそ、無責任な希望を民に語り告げることは受容できない。
しかし、そこに光が差し込まれるのである。生かす神は死んだ沈黙をやり続けるお方ではない。「天が開けて、神の幻を見た」。これは主なる神の介入であり、民を生かす神の働きかけである。主は常に働きかけて下さり、暗闇の中で行き詰って彷徨う者に近付かれ、生かすお方である。
天が開かれる恵みがあったのである。そこには命があり、再び生きるリバイバルがあったのである。主なる神が、今年、私たちのところに「天を開いてくださる」のである。それで、生きる恵みがさらに加えられるのである。
「いこいのみぎわに伴われる主」1月18日
「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」。強い意志をもって主は、ダビデを緑の牧場と憩いのみぎわに導くのである。休む事無く必死に働くあなたを休ませるのである。このダビデの告白は、イエスの言葉によって私たちのものとなる。
「すべて重荷を負うて苦労しているものは、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」(マタイ11:28-29)。
ダビデを休ませる神はイエス・キリストである。そのお方があなたにおっしゃる。「来なさい」、「負いなさい」そして「学びなさい」と言われる。
イエスこそがまことの休みである。そのお方にあなたの平安があるから、そのイエスに来て、イエスのくびきを負わなければならないことである。くびきは二人が負うものである。イエスがあなたと共にくびきを負うことであるから、そこに平安が生じる。
そして歩調、足並みを合わせていくことを学ぶのである。イエスに足並みを合わせないとき痛みが生じるのである。今、キリストと同行するあなたはイエスとその歩調を合わせなさい。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」1月11日
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」。ダビデの告白は、心配しない、何の憂いもないという意味である。人は心配の中で生きている存在である。しかし、心配は百害一利無しである。では、乏しいことのない、心配しないことは、どういうことか?それは牧者と羊の関係にある。
牧者は羊を買い取り、すべての必要なものを提供し、よき牧場に導き、すべての敵から守るものである。このような牧者の下にいる羊であれば、確かに乏しいことはない。
では、あなたの牧者は誰なのか?牧者のない羊のように悩むのが人生であると聖書は言う(ゼカリヤ10:2)。乏しくなることがないように、あなたを導く牧者はいるのか?
まことの羊飼いがおられると聖書は語る。それはイエス・キリストである。イエスは「わたしはよい羊飼いである」(ヨハネ10:14)。実に、イエスはあなたのよい羊飼いになるためにこの世に来られたのである。あなたのために命をも捧げたお方である。このお方をあなたの羊飼いとして受け入れるならば、あなたには乏しいことはないでしょう。主は、あなたのことを知っておられる。主に従うことは羊の生き方である。
「見よ、わたしは新しい事をなす」1月4日
2009年が神様によって与えられた。多くの心配や不安がわたしたちの心から離れる事のなかったほどの昨年であった。しかし、主は新年を与えられた。
ただ時間が経ったから廻ってきたのではなく、「与えられたのだ」と言い切ろう。なぜ?そこには理由と目的があるからだ。それらなしには新年がやってくるはずはないからだ。
聖書からその理由と目的を聞く。今日の本文に「さきの事を思い出してはならない。主は新しい事をなす」とある。新しい事をするから、昔の事は忘れなさいという意味以上のことが、ここに含まれている。
「さきの事」は16-17節にあるように、奴隷の家、苦しみと嘆きの家から救い出される時に、彼らの先祖が「紅海を陸地のように渡った」ことを現す。今、彼らは昔の先祖のように捕囚の身となっている。そこから主は彼らを救い出すのであるが、昔のような方法、道、方式ではなく、新しいやり方、方法によって、救われると言われる。
今年、主なる神はあなたとあなたの家族、教会に新しいことをなす。昨年とは違った方法で、あなたを救い出す新しいことをなす。だから、大いに期待し、大いにチャレンジして行こう。
今日は、2008年度の最後の主の日の礼拝です。一年を振り返って見る時、どういう思いが浮かび上がるのですか。今日の本文のガラテヤ書2章20節には、「私」という語が6回も出る。それほど「私」が重要である。
今年、私に、私の周りに起こったすべての問題の発祥地は、他でもなくこの「私」ではないか。この「私」がどうにかならないならば、依然と問題は続くであろう。
今日の本文はその「私」の問題を解決する道を教えている。19-20節に「わたしはキリストと共に十字架につけられた、だから生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが生きている」。
キリスト者は、自分の中に「私」が生きているのではなく、「キリスト」が生きている存在である。キリストが生きる存在とは、律法に生きる存在ではなく、福音、恵み、赦し、感謝、愛に生きることである。
従って、神の国の民として生きることであって、「キリストのように」という道徳や倫理に生きるのではない。キリストや霊的熱狂者のように真似して生きることは偽善である。ただ、キリストが生きることを感謝しよう。
キリストはユダの王ヘロデの代に生まれた。ユダの民はアッシリア、バビロン、そしてローマの支配下に、何百年も抑圧されて、苦しめられていきてきた哀れな民であった。しかし、そのような迫害の内に生きているユダの人々の心には、メシア、ダビデのような大王が現れ、自分たちを救ってくれると信じる望みをもっていたのである。そのような迫害と希望のただ中にキリストは生まれた。だから、多くのユダの人々は、まことのメシアであるキリスト・イエスの誕生を心から喜び、感謝のうちに迎え入れるはずであった。
が、しかし誰一人イエスの誕生をお祝いして拝みに来る人はいなかった。そこで現れたのは東からの博士たちであった。誰も予想しなかったところからの人々である。誰が思ったであろう。ユダの人々すらお祝いに来ない中で、意外なところから人々は現れたのである。また、羊の番をしていた羊飼いたちがイエスのご聖誕をお祝いするために来たのである。両方とも、神様の導きのほかない。一方は星を見て、他方は天使の御告げを受けてである。
誰もイエスのご聖誕をお祝いしない、さらに意味も分からずにクリスマスを祝っている人々が殆どである現実の中に、今日、あなたがたが礼拝に来られたのは、まさに主の導きであり、主の御旨である。意外なところから意外な人々が馬小屋に訪れたように、私たち自身イエスから見れば意外な人々である。だから、神様によって導かれていることを感謝するのではないか。
「襲いかかった危機を乗り越えて」12月14日
「葡萄酒がなくなった」とは、突然起こった事件、事故、あるいは問題である。私たちはそのような突然の危機に無防備であり、だから常に悩み、苦しみのである。今日与えられた本文には、そこに
「イエスも招かれた」と書かれてある。「なくなった」と言う事を、著者は「イエスはそこにおいでになっている」ということに繋ぎ止めているような印象を受ける。いや、まさにそのとおりであろう。急に襲い掛かって来る「なくなる」事態のただ中に、すでに主はおられることである。暴風に遭われた船であるが、そこには主ご自身がおられたということを思い起こすのである。主は来ていてくださる。
今、あなたの「なくなった」という状況に、主はすでにそこにおられるのである。その主にたずね求めよう。「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもしてください」という声に、私たちは心からアーメンと言うべきであろう。すでにこの危機の状態に来ていてくださるお方の言う通りに、あなたも私も行なっていきましょう。それが従順です。
「イエスって、知っていますか?」12月7日
キリストは、油注がれた者という意味のメシヤのギリシャ語訳である。旧約の時代には、王職、祭司職、そして預言職が与えられる時に、油を注いで任職した。だから、複数のメシヤがいたが、キリストはまことのメシヤであるから、イエス・キリスト以来は単数のメシヤのみである。
そしてイエスは、救う者という意味だから、わたしたちを罪から救い出すという意味である。イエスは、あなたを救う者である。
だから、イエス・キリストはわたしたちを救い出して、王としてわたしたちを守り支え、祭司として、わたしたちを神への道をそなえ、そして預言者という教師として、わたしたちが生きるべき道を教えてくださるお方である。
わたしたちの王であり、祭司であり、預言者であるこのイエス・キリストは、さらにインマヌエルでもある。神我らと共におられるという意味である。
イエス・キリストは、あなたの人生を王・祭司・教師として、そしてインマヌエルとして、今も、守ってくださり、支えてくださり、導いて下さり、教えてくださるのである。今度のクリスマスには、このような恵みがあなたに豊かに与えられますように。
「あなたの内からか?外からか?」11月30日
私たち人間は皆、一人も残らず死ぬ。なぜなら、それは死ぬ病気に罹っているからである。死と言う病原体が私たち
の体の中に入り込んでいる。だから、私たちは生きているというのは名だけで、その実は死んでいるのである。
なぜ、人は死ぬ病気にかかったのか。聖書は「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)。人の罪によって死がこの世に入り込んだ。罪は神に対する正しくない態度である。創造者と被造物との関係が崩れたところが罪である。自ら存在し、自らその存在を維持しようとする被造物の高慢である。
被造物は、被造物であるがゆえに、創造者からの支えと守り無しには、生きられない。被造物は有限的存在であり、制限された資源をもって生きる存在である。人間は頑張ったとしても100年そこそこである。つまり制限された資源に制限された人生を生きる。そこに争いや憎しみが生じる。
この有限的に制限された人生の中からは無限な資源の恵みは生じ得ない。無限は無限なるお方からのみ来るのである。神なるイエス・キリストからあなたへの無限の恵みが与えられる。その主なる神が今あなたに来ている。
「神の国としての教会」11月23日
神の国の地上的な形は神様の恵みによって選び出された教会である。神の国である教会は必ず三つの特徴を持つ。1)一粒のからし種のように、値打ちもない、つまらない、取るに足りないものである。2)が、この無価値なものが必ずや大きく成長して多くの人々の魂の宿りとなる。3)パン種のように粉を膨らませる内的変化をもたらす。
十字架は人の常識、知識、経験、学問、理性から見れば、情けない弱虫、負け組、失敗、敗北であった。が、二千年経っての今、十字架は力と平和であり、癒しと慰めであり、希望であり、それこそ多くの人々の宿のような安らぎを与えている。
この三つの必然性は、「庭」に蒔かれることから生じたのである。この「庭」はゲッセマネの園であり、十字架の丘である。キリストのゲッセマネでの祈りと十字架の死は、まさに庭に蒔かれた一粒の種である。だから、つまらない負け組みの十字架ではあるが、必ず成長し、内的な改革を齎し、多くの人々にまことの救いの平安を与えるものとなる。そこに「まことの力」がある。教会は、弱いモノのように見えても、必ず必然的に成長し、あなたを含む多くの人々に希望と安らぎを与える。
「あなたがたの知らない食物」11月16日
渇く二人がここにある。喉の渇き、これは人間が本能的、いや必ず人間が求めるはずの渇きである。肉体的な渇きである。その解消の為に井戸に二人の人が存在する。その一人はサマリヤ女で在る。そこにまたイエスという方が在る。二人の共通点は渇くことである。イエスは女に話しかける。「夫を連れてきなさい。」「私に夫はいません」。5回も結婚した女、今の人はただ同居しているだけという話である。女の喉の渇きは、まさに人生の渇き、5回も結婚するほどの何かへの渇きである。そこを主が突きつめられる。女は礼拝に関心を持つようになる。人生の渇きを求める女は、礼拝、つまり宗教にもその渇きの満たしを求めたのである。しかし、宗教の争いや葛藤に諦めかけている。宗教ではなく、「霊と真実」という出会いを提案するイエス。
他方、イエスの渇きはサマリヤ女のように人生の渇きを満たしたいという渇きをもっている人々を捜し求めたい渇きである。なぜなら、イエス自身がその渇きを満たす力をもっておられるからである。イエスはサマリヤ女の渇きを満たしてあげたいという強い渇きをもっておられる。
女の罪を指摘するのではなく、女の人生の渇きを満たして生きたいというイエスの渇きは今も、あなたの人生の渇きを満たしたい渇きをもって、あなたのところに近寄ってこられる。今、あなたのところに座って、あなたの人生を見つめておられるイエスとの出会いは祝福そのものである。
「主の東奔西走」11月9日
主の東奔西走は、弟子たちをあわれむ主の御心である。本文を通して、復活を信じない、期待もしなかったということに、私たちは気づく。
8節でもし終わったとしたら、恐怖と恐れのうちに、マリアは、一生涯生きることになったのであろう。そして今もそのような恐れは続いていることになったであろう。
しかし主はそのように終わらせない。主はマリアに現れ、さらに二人の弟子に現れ、最終的には11名の弟子たちに現れた。まさに東奔西走するような忙しさで、ご自分を現されたのは、なぜか。それは彼女たちや彼らを愛し、平安のうちに生きることを望まれたからであろう。
しかし、イエスと出会った人々の証は受け入れられない。弟子たちを含め人々はイエスの復活を信じなかった。それでも、主はご自分を現され、さらに言われる「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と。不信仰者、信じない者たちでもあっても、主はそれらの人々を信じて言われる。主は今日も、あなたに言われる。あなたの不信仰があるにしても、主はあなたを信じて言われる。それに、アーメンと従おう。
「ふさわしく与る」11月2日
私たちの教会は毎月、第一週目に聖晩餐の恵みに与る。聖晩餐が持つ恵みとその意味はよく知っている。特に「ふさわしくないまま」に与ってはならないことである。従って「ふさわしく」与るべきである。
その「ふさわしく」(27節)ということはどういうことなのか。それは「主の死を告げ知らせる」(26節)を前提的な言葉として持つのであるから、「ふさわしい」とは、「主の死」と深くかかわりを持つ。
「主の死」は、十字架の死であり、さらにそれは十字架の死だけではなく、主の復活と昇天までも含む御言葉である。だから、イエスの死は偉大な意味を持つ。そして、そのイエス・キリストの十字架の死と復活が「あなた」とどういう関係であるのかをはっきりと認識し、それを信じる者が「ふさわしい」という意味になる。
従って、福音は「神の国が近づいたから、悔い改める」だけではなく、さらに「主の死と復活」に与ることである。なぜイエスは死んだのか?復活はどういう力として、私に与えられるのか?これらことを通して、今私の存在はどう変ったのか?そこに「ふさわしい」という言葉が立つのである。
「持っている者はいよいよ豊かになる」10月26日
種まきの喩えは神の国を喩えるイエス様のお話である。種をまくとある種は道ばたに落ちた。道ばたから考えられるイメージは頑なさであろう。だから種は落ちたままであるから、「鳥」が来て食べてしまう。他の福音書は「悪魔」が来て救われないように食べてしまうと言う。
ある種は石地に落ちた。土の薄いところだから、種はすぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、「根」がないために枯れてしまう。どんな植物でも「根」をしっかり持つべきである。「根」の無い信仰はすぐ枯れてしまう。何があってもやり通して変らぬ信仰が求められる時代である。
他の種はいばらの地に落ちた。すると茨が伸びてふさいでしまったという。信仰を持つことは悩みの種かもしれない。逆に、そのような悩みに引きずり回されるとまことの信仰はけっして得られない。
他の種は良い地に落ちた。これから良い地になるのではなく、すでに良い地に落ちたのである。どう良い地なのか。それは「実を結ぶ」地が良い地である。良い地か判らない場合、「実を結んでいるか」を見れば、わかる。あなたの心は良い地ですか。
「はやく起き上がりなさい」10月19日
災いや艱難に襲われた時、私たちクリスチャンはどうすればよいのでしょうか。ペテロは牢獄に投げ込まれ、明日処刑されることになっている。しかし、彼は平安でいられた。「寝た」とは、死の恐怖や思い煩いなどのすべてを主に委ねた時に与えられる平安の恵みである。嵐の中に眠っておられたイエスのように、人生の嵐の中で平安を保つことができるとは、ペテロの信仰の成熟を現すものである。次に、災いの中にあるペテロは従順であったことである。平安の中に、主が現れる。私たちがすべて主に委ねて平安の恵みにいるときに、主は現れる。そしてその災いから救い出してくださる。どのように、だれによってもよくわからないままに、主の導きは成し遂げられていく。恵みはいつも、先から判るものではなく、後から悟らされるものである。
最後に、その悟ったペテロの感謝である。感謝は災いを乗り越える大きな恵みの手段である。「われにかえって」「ことがわかった」という恵みは告白である。神の恵みを悟らない者は、感謝がないものである。悟っても感謝がなければ、それは神無視である。委ねて、従順にしたがって、恵みへの感謝に生きることは、人生の嵐に勝つことである。
「苦難に直面させられる不確実な時代」10月12日
ヘロデの手によってヤコブ先生は処刑され殉教の血を流されたが、ペテロは助けられた。聖書はエルサレムの教会がペテロのために祈ったと記録しているが、ヤコブ先生に関しては沈黙である。しかし確かな推論として、エルサレム教会が同じ使徒であったヤコブ先生のためにも祈ったに違いない。
つまり、人は祈る。答えは神様から来るという真理を改めて覚える箇所である。何事でも祈るのが、聖書の教えである。同時に、すべてが人間の目の前で形として現れるのが答えでもない。現れない答えもある。その答えの基準は人間側にあるのではなく、神側にある。祈りはすべてを解くカギであるが、まさに万病をいやす神薬のようなものではない。重要なのは祈ること自体である。答えは、答えられないのも答えであり、答えられるのも答えである。
さらに、誰のために祈るということが教えられる。あなたのために誰かが祈っていることは、あなたの見えない力と助けとになっている。エルサレムの教会はペテロの投獄という具体的な祈りの課題をもって祈る。教会の兄弟姉妹の具体的な祈りの課題をもって祈りませんか。お互いに祈祷課題を言い合える教会を建てていきましょう。
「あなたはクリスチャンですか」10月5日
エルサレムから始まった福音はやっとアンテオケにも教会を立てるようになった。しかし信仰に入ったばかりの民を堅実な信仰に導く指導者がいなかったので、エルサレム教会はバルナバを遣わす。彼はまずアンテオケの皆さんが、主に対して揺るがない心で持ち続けるように励ました。「励まし」と「慰め」が同意語であるから、慰めるとは、御言葉をもって励ますことである。兄弟姉妹を慰めたいと思うなら、御言葉をもって励ますべきである。
さらに「聖霊と信仰」に満ちた人であった。両方は同じ根源をもつ、不可分のものであるが、まさに別々なもののように書かれてある。キリストを救い主として告白する者は聖霊を受けているが、キリストに忠実、あるいは忠誠を尽くす信仰はあるのか。ステパノのようにキリストのために死ぬほどの信仰が求められる時代である。
彼はパウロをタルソから連れ帰る。二人は一年間教えた。なぜペテロやヨハネ、ヤコブではなかったのか。教会をしっかりと基礎付けていくためには神知識と御言葉知識が必要である。どんな賜物より重要なのは教えであり、それを聞くことである。バルナバの選択はやっぱり正しかったのである。
「聖霊と信仰とに満たされて」9月28日
福音は、あなたを救う神の出来事である。神によって世界が創造されたように、神は福音をもってあなたをもう一度再創造なさる。だから、福音は神による創造的な出来事である。創造であるから、全人的再創造である。福音には何一つ足りないところはない。
しかしこの福音は人によって宣べ伝えられる。人の足と口を通して、私たちのところに届けられる。
日本に福音が伝えられたのも、死を覚悟した宣教師たちの働きによるである。彼らはイエス・キリストの最後の宣教命令を謙虚に受け止めて、この日本の地にまで足を運んだのである。福音を信じて救われる人を得るために、彼らは多くの教会の支援と応援の中に来て、宣教を広げたのである。
わたしたちは神の恵みにあずかっているが、神の恵みは人々の働きを通して、歴史の中に具現化されていく。
福音はステパノの死によっても宣べ伝えられるべきものであったことをえる。福音は人間の不可欠なものであって、選択的なものではない。福音はあなたへの神のメッセージである。それによって人は再創造の恵みに与る。それによって新たな人となるのである。神の出来事だからである。
今日も、全能なる神様は多くの人々に幻を与える。神様から与えられた幻は「ちょうどその時」(11)に、両方(ペテロとコルネリオ)によって証明される。もし、ペテロだけであるならば、コルネリオは受け入れ難い。その逆もそうである。幻への理解は深い慎重な注意が必要である。その時期も注意深いものであるが、その内容もそうである。両方とも神の宣教において一致している。両方の一致は幻における三位一体なる神の御旨の一致を現すものである。三つなる神様がすべてにおいて同一であるように、幻は御父・御子・御霊において一致するのである。
その内容はキリスト・イエスであった。キリストがコルネリオの家にリバイバルを引き起こしたのである。キリスト・イエスのみが私たちの復興の根源であり、始まりであり、手段であり、終わりである。キリストは救いの恵みを与える。キリストがあなたに永遠の命を与える。キリストがあなたを導き、生かすのである。そこにはキリストのみがある。
エルサレムの人々は理解できた。ペテロの報告は、エルサレムの教会員にとって受け入れるに問題がなかった。それによって異邦人への伝道は、ただの個人的な問題ではなく、神の宣教のわざとして受け入れられたのである。天上の計画であっても、神様はそれをご自分の御体である教会の承認を通して成し遂げるのである。
「説教、聖霊を受ける、そしてバプテスマ」9月14日
歴史は流れる。福音はユダヤ人の上に聖霊が下ることでもって広がり始めた。しかし福音は異邦人にまで広がることはなかった。しかし福音は一つのところに留まることはない。地の果てまで宣べ伝えなければならない。
しかし福音の宣教は広がる性質をもっているが、「割礼を受けている者」は、割礼を受けていない者、つまり異邦人には救いがないと思い込んでいたゆえに、そのところには行かなかった。
しかし神様の導きがありペテロはコルネリオの家に行く。そこでペテロが説教を始めた。説教、つまり神のみ言葉が終わらない内に、その割礼を受けていなかった異邦人にも聖霊がくだった。それはペテロとその一行が、異邦人たちも異言を語るのを聞いたからである。異言は神を讃美することであった。それはあのエルサレムの時とまったく同様であった。だから、聖霊が下ったとみなしたのである。
異邦人にも福音の恵みと悔い改めの恵みが与えられた。ユダヤ人にとって理解できないことが起こった。そこには証人となる人々がいた。ペテロはそのような人々がいたからこそ、コルネリオの家に行くことができた。主は人を備えてくださる。
「初代教会的な教会を求めて」9月7日
歴史における教会は常に聖書的な教会という理想的な教会モデルを捜し求める。それらの人々が異口同声に言うのは「初代教会に帰ろう」ということである。では初代教会はどういう教会であったのか?初代教会の歴史書でもある使徒行伝には21回に亘る説教が載せられている。初代教会は説教する教会であり、説教からすべでの出来事は起こってきた。今でも説教は行われ続けている。何が違うのか。
説教への思慕の熱情である。伝える熱情と聞こうとする熱情が重なる時の出来事が説教の救済的出来事である。説教への熱い思慕があるところに、神は神的な出来事を起こす。聖霊に導かれて聞こうとする聴衆者は、神に答えられるのである。
どんな説教なのか?伝道の説教でも、癒しの説教でもない。イエス・キリストのみの説教であった。ただのイエス・キリストだけではない。ここは多くの現代神学の間違いがある。なぜキリストは生まれたのか?誰なのか?なぜ死んだのか?どのように死んだのか?十字架とあなたの関係は?復活は?今は?キリストの人格、死、復活、今のとりなしと、自分との関係を言う説教であった。
「神からの書留の手紙」8月31日
神様はわたしたちに書留の手紙を送っております。それは、「上から来る者」、あるいは「天から下ってきた者」、です。天から来たのですから、神様が送ってくださった恵みであり、プレゼントであります。天からその恵みを賜ったのは「御子を信じる者が一人も滅びないで救われるため」であります。つまり、神から送られた「上から来る者」はキリストであります。
しかし、このイエス・キリストをこの世の人々は受け入れようとしません。受け入れても「認める」ことはしないのです。つまり、「書留」はしないままに、ただ単に受け入れています。
認めること、あるいは書留めることは、「送られたものを」責任を持って受け入れて、信じていくこと、それの証人であることを意味します。天から送られた書留を「いい話だ」、「立派な教えだ」とは言っても、それを受け入れて証人とはなろうとしない。
神様は、今日もあなたのところに「書留」のめぐみを天から送られております。あなたはそれを受け入れて書留めますか。証人となりますか。そうであるなら、あなたは永遠の命に与るのです。最後の審判の時に、わたしたちは永遠の命をもって祝福に与るのです。
「あなたの人生にやり直しがきくならば」8月24日
人生のやり直しは効かない。だから、人生は後悔の連続であると言われる。誰でも、後悔する。お金持ちも、貧しい人も、地位ある人も、ない人も、名誉ある人も、ない人も、誰でも後悔する人生を生きる。だから、人は将来への不安を持つ。過去の後悔は未来の不安に繋がる。それで「救い」を求める。
自力でそれを求めようとするのが人間の宗教である。倫理、道徳、公徳などによって求めるが、しかし、結局は得られないまま不安がつのるだけである。ニコデモという指導的な人物は、地上的な豊かさをもって、地上的なやり方で救いを求めようとしたが、得られなかった。それで、結局イエスにノックする。
イエス様は「水と霊とから生まれ変わらなければ、救われない」と言われる。生まれ変わる、つまり人生のやり直しである。「水と霊」による生まれ変わりは、地上的な言葉や働きによるのではなく、十字架につけられたイエス・キリストを信じることである。救いは地上的なものではなく、天上の事柄である。だから、天から来られたお方によってのみあなたに与えられるものである。人生の再出発させたい皆さん、イエスを信じましょう。
「イエスを立ちとどまらせなさい」8月17日
あなたは、肯定的な人なのか?否定的な人なのか?目の見えない二人の盲人はキリスト・イエスが通りかかるのを聞いて叫びあわれみを乞い求めた。キリストの周りにいた人々は彼らを黙らせたが、彼らはますます叫び続けた。イエス・キリストへの熱情である。熱情の信仰の無気力は現代クリスチャンの特徴である。その激しい叫びによって、イエス・キリストは立ち止った。イエス・キリストを自分たちの人生の前に立ち止らせるのは、激しい叫びである。が、しかしそれと同時に、彼らはキリスト・イエスへの適切な認識も大きな要素である。「主よ、ダビデの子よ」ただのイエスではなく、主として、旧約の預言のようにダビデの子と叫ぶ。誰を信じるのか、信仰の対象が明確であった。
立ち止ったイエスは彼らの目をさわられたのである。「さわる」ということは熱くするというキリストの熱情の現われでもある。あなたのキリストへの熱情はキリストをあなたの人生の真ん中に立ち止らせることであり、さらにキリストが熱情を持ってあなたの人生をおさわりになることとして結ばれる。
キリストをまずあなたの人生の前に立ち止らせなさい。これができないなら、私たちはキリストの熱い恵みにふれられることはないであろう。キリストは今も、あなたの熱情的な叫びを聞きたいと耳を傾けておられる。今日のあなたの叫びは、キリストの恵みの熱情として、あなたの人生に注がれるのである。
「あなたは冷たくもなく、熱くもない」8月10日
聖書は少なくともまことの・唯一なる・全能なる・創造主神を信じる信仰においては極端を要求します。唯一神教は恐いと言われます。「恐い」という言葉にひっかかる必要はありませんが、確かに聖書は信仰の道は一つしかないと語ります。神に近づく道は一つしかないし、祝福され救われる道も一つしかありません。だからイエスは、私は道であり、真理であるとおっしゃいます。あなたの命を祝福し、救い出してくださる方は複数いるのではなく、ただ一人のみの神様がいるだけであります。放蕩息子が戻ってくるべきところは複数の場所があったのではなく、ただ唯一の父の家のみでありました。
熱くもなく、冷たくもない信仰とは、まさに誰でもよい、どんな神々でもよい、沢山拝んでおけばよいという考えであります。
「極端」、「唯一」などの言葉に異議を唱える現代人は高慢としか言いようがありません。自分を創造してくださった神を知るなら当然「熱く」なるのです。それは信仰であり、熱い信仰であります。それをもって常に、あなたの心の扉を主に開けていきましょう。主はあなたと共に食事したいと、今も願っておられます。
「御言葉の魅力と力」8月3日
ヒラデルヒヤ教会は主から賞賛のみを受けた。その理由は、少ししか力がなかったにもかかわらず、主の御言葉を守り、主の御名を否まなかったからである。
御言葉を守り、主の御名を否まないことは、主なる神に何よりも喜ばれることである。だから、主は彼らの前に「だれも閉じることのできない門を開いておいた」。開かれた門を通って、ヒラデルヒヤ教会は主の祝福の恵みに近づくことが許されてある。
次に、人々の前で、特に自ら主の御心に従い、熱心であると主張する自己満足的な信仰者たちの前で、主はヒラデルヒヤ教会のみを愛すると宣言してくださる。認めてくださる。
さらに、主は試練の時に守ってくださるといわれる。わたしはすでにこの世に勝っている。そして、主は私の言葉を守る人のところに行って、その人と一緒に住むであろうと約束なさる(ヨハネ14:23-24)。
また、神の聖所の柱にすると言われる。地震の多いところで、柱となって二度と外へ出ることはない恵み、守られる恵みが彼らに与えられている。
主は完全を求めない。主は小さな力であっても、主に従うのを求める。
「主なる神が喜ばれる家」7月27日
神はダビデの幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる(アモス9:12)。 この預言はルカによって確認される(使徒行伝15:16)。神様はなぜ、モーセの荒野の幕屋でもなく、ソロモンの神殿でもなく、ゼルバベルの神殿でもないダビデの幕屋を再び興すと言われるのか?
ダビデの幕屋の特徴の一つは、聖所と至聖所とを区分する垂れ幕のない幕屋であった。ダビデの幕屋は、ソロモンの神殿の前段階として、一時的な、仮屋のような幕屋であった。それは誰でも至聖所に入れた。
もう一つの特徴は、ダビデの神の御臨在への渇望、慕い求める熱心さである。アビナダブの家に安置されていた神の箱をシオンの山に運び入れたいというダビデの強い願望である。誰一人神の箱に関心をよせない中で、彼は求めた。神のインマヌエルの祝福に与りたいという心からの願いを、主は求めておられる。その願いはキリストによって叶えられる。キリストという幕屋は聖所と至聖所との区別もなく、誰でも信じるなら救われるオープンな恵みがある。教会建築はこのオープンな恵みと強い願望から始まるべきである。
「リバイバルを渇望しなさい」7月20日
リバイバルはどのように、どこから起こってくるのか。それは様々である。今日のテキストはその一つの典型的な例を示している。主なる神への関心を持ち、主を慕い求めることから始まる。1.主を慕って嘆くことは、主を求めることである。そこに主のみ言葉が臨む。御言葉は求める者に与えられる時、出来事を起こすのである。主のみ言葉は、2.主に立ち返ることを要求する。それは、偶像を捨て去ること、心を主に向けること、そして主にのみ仕えることである。3.次に、ミヅパに集まれ!と命じられる。捨て去り、心を主に向け、主のみに仕える者は、ミヅパに集まる必要がある。そこで水を汲み、断食して、そして悔い改めが行われる。まことの礼拝の回復である。4.主なる神へのまことの礼拝が回復されるとき、初めて敵はあなたの存在に気が付く。あなたの敵(ペリシテ人)は攻め上る。5.イスラエルの民は「恐れる」。民はまだ主から力を得ていない。確信がない。そこで民は指導者に祈りを求める。6.サムエルによって完全な犠牲と献身が行われる時に、初めて主は答えられる(9節)。つまり、その時に初めて、民のために主が働いてくださる。主が力をもって働いてくださる時に、民は確信を得て、戦える。7.結果的に民は強くなる(13節:征服)。強くなることは、平和(14節)を保つことであり、リバイバルの結果的恵みである。神から離れていた時は、強く見えたが実は弱かった。主なる神が共にいてくださるときは、弱く見えても、強くなる。強くなることは平和に繋がることである。リバイバルは、あなたが神によって強くなることである。
「生きているのか死んでいるのか」7月13日
主のサルデス教会への診断は「生きているというのは名だけで、実は死んでいる」ことである。「死んだ」という表現は神が離れてしまったことである。なぜ、神が離れるようになったのか。それは「目を覚ましていなかった」からである。安住、安泰のサタンの計略に飲み込まれてしまったのだ。敬虔な様子はあるが、その実、信心の力を否定している教会であった。単なる宗教活動、教養生活にすぎなかった。だから、七つの霊を持つ方が語られる。
聖霊に満たされた教会は目を覚ましている教会であり、居眠りする教会ではない。たゆむ暇がない教会である。
死にかけているサルデス教会をもう一度建て直す秘訣は、「汚れてない白い衣」を持っている者たちによってである。神のリバイバルの方式は、残された、神にとっておかれた者たちによってである。それらの人たちとは、「キリストと共に歩み続ける」(4節)人である。
あなたは、あなたの家族は、そして袋井北教会は主と共に歩み続けているのでしょうか。もし、そうであれば、あなたは、あなたの家族は、そして私たちの教会は消えかけている日本の教会のリバイバルのために用いられるべき「衣を汚さない」ものである。
「真と偽を見分ける知識を備えなさい」7月6日
燃える炎のような目を持つお方が、「愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、はじめよりもまさっていることを知っている」と、言われた。
このような積極的な神様から評価があるとしても、しかしこのテアテラ教会は「イゼベルの問題」を持っている。自ら女預言者であると自称するものであるイゼベルは、神に逆らう、神の栄光を覆すエリコの町を再建したものである。
真なる神にも仕え、そうではない偶像にも仕えていこうとする曖昧な態度、妥協的な態度、中立的な態度を主張する。この世を生きるためには、信仰も大事であるが、世の歴史や文化、慣習も大事であるという考えである。
このような妥協的な考えは、私たちの実存的な不安から来る。この世の歩調に合わせなければ、やっていけないという人間の不安から来るのである。
まず、神の義と神の国を求めるならば、後のことはすべて添えて与えてくださる。今の時代、偽りと真実を見極めることのできる信仰者はどれほどいるのか。不思議なことはどこにも起こるが、しかし真実な御言葉は稀な時代の中に、われわれは生きている。
なぜ盲人か、本人に罪があるのか、 親にあるのか、神の御業が現れるためである。生まれつき盲人であり厳しい人生を送ることは目的があって選ばれた人である。
それは目が開いて魂の目さえも開いて信じるに至り、神をほめ讃え、彼の中に永遠の命が始まるという神の御業が現れるためである。神の予定通り彼は盲人として前半生を送り、突然主イエスによって目を開けられる。キリストご自身に出会い信仰告白するという神の予定があり、神の計画があったのだ。栄光とは、選びと召しを受けた者は「信じたい」と心から告白し、確信をもって信仰に導かれる。主に栄光を現わすことができる
パリサイ派の関心は、戒めを堅く守る律法主義の人であるから安息日に治療行為をしたことに関心があり、主イエスに責め寄った。安息日にそんなことをする人間は神の戒めを破っている人間で当然悪魔に動かされ神から出たものではないと非難した。
神は私をも選び、確実な救いの道に導いて下さる。救いは神の選びと予定に出発点があるからである。召しに答えるものは神様のものである。
「めぐみの翼に乗っての43年」6月22日
43周年の神の恵みに感謝しましょう。教団から離脱して信仰を共に告白する教会を目指していくことを祈り求めて参りました。何を信じるのか。どのように信じるのか。信じる神はどういうお方なのか。それで如何に生きていくべきなのかなどを告白するのであります。まさに同じ目的地に向かう船に乗ることであります。船長であるイエス・キリストを中心にして、目的地に向かっていくのであります。様々な考えがあるが、私たちは一つとなることができるのであります。それは、キリストがあるからであります。
同じ船に乗っても、信じる神概念が違ったり、船長の主が違ったり、目的地への辿り着く航海ルートが違ったりすると、混乱が生じ、船は大変な目に遭うでしょう。特に、困難が生じる場合、船が動かなくなってしまいます。 実は、船が動かなくなることはありません。動かなくなってしまうのは、波や風に流されることを意味します。そうであるなら、取り戻すことのできない事態になってしまいます。
今、私たちはまず神を求め、キリスト・イエスを求めて、そのお方に従っていくことが、これからの40年間を生きる最高の道であります。
「新しい名が与えられる」6月15日
ペルガモにある教会の御使に書き送る手紙の送り主は「鋭いもろ刃のつるぎをもっている方」である。手術において刃は悪い部位を抉り取るものとして用いられる。まさに、教会の腐った患部を取り除くために、今主は鋭いもろ刃をもって臨まれるのである。そのもろ刃は「神の御言葉」であり、「精神と霊魂と関節と骨髄とを刺し通す」(ヘブル4:12)のである。
ペルガモ教会にはバラムの教えとニコライ党の教えに奉じるものがいた。昔からそういう教会ではなかった。偶像の神々の中でも、その迫害の中でも、殉教に至る信仰を持っていたほど、死の恐怖があっても、主への信仰を捨てることがなかった教会であったが、今は変質された宗の教えと妥協する教会となった。
偶像の社会の中で、純粋な信仰を堅持するのは容易いことではない。多くの場合、真の信仰は社会・文化・歴史・偽りの宗教に同化されやすい。「不信仰と、つり合わないくびきを共にするな」(II コリント6:14)。
バラムとニコライの誘惑に勝利をするものには、隠されたマナを与え、白い石を与える。そしてその白い石にあなたの新しい名前を書かれてある。このことは、「ほかだれもしらない」めぐみです。神の恵みは、あなたに代わって誰かが味わうことのできるものではない。子供に代わって、親がやってあげるようなものではない。それはあなた自身がわかるものである。主とあなたとの間に起こる密接なめぐみであり、体験である。
「死に至るまで忠実であれ」6月8日
主が小アジアにある七つの教会に書き送った二番目の手紙は、スミルナ教会宛である。特に、主のお叱りを受けなかったスミルナ教会は、その言葉の意味(もつやく)が言うように、死に至るまで忠実であった。
発信人である主は、「始めであり終わりである者、死んだことがあるが生き返った者」である。主は世界とその歴史を支配し摂理し、さらに死んだこともあり、そこから生き返ったお方である。つまり、再び生きる事の回復を齎すことのできるお方としてあなたを見ておられる。
その主が「あなたの・・・知る」と言う。主はあなたのすべてのことを知っておられるお方である。知ることは、判断を下すことに繋がる。しかし、主とあなたとの間に、その知ることによる認識は異なる。
あなたは今苦難や貧しさの中にある自分を認識している。それであなたはその現実に死んでいるかもしれない。しかし主は今のあなたの苦難や貧しさを見て、あなたは富んでいるのだ、と認識・判断される。あなたの考えと主のそれとは違う。どちらが正しいのか。主の目には、すでにあなたは豊かなものである。
「最初の愛は、どこから落とされたのか」6月1日
主はエペソ教会に、わたしはあなたの行いと労苦と忍耐とを知っており、あなたが正統な信仰から離れた悪い者や偽り者たちを見抜いたことをも知っていると言う。
さらに、わたしの名のために耐え忍び、疲れるのも覚えずに頑張ったことをも知っていると言う。今の主のみ言葉を聞くと、到底真似もできないすばらしい正統な信仰と教理をエペソ教会は持っていたことがわかる。このことは心から学ぶべきものである。
しかし主はこの健全な正統的な教会に「責むべき事がある」、それは「初めの愛から離れてしまった」ことである。主を愛する心の無い忍耐や労苦や行いよりは、主に対する変らぬ熱愛が求められる。それこそ初めに主と出会った時のあの熱々しい愛から冷めてしまった信仰の正しさを求めない。
神の御臨在の燭台が取りのかれないように、まだ主との熱愛を体験していないなら、あるいは初めの愛を失ったならば、それを思い起こし、悔い改め、それを実行すべきである。勝利を得る者は木の実を食べる恵みが与えられると約束される。
「不平不満の毒は、あなたの人生の致命的害である」5月25日
不満・不平の毒は、あなたの人生の致命的な害である。聖書に現れるイスラエル民の典型的な姿の一つは、神様につぶやく事である。何度も繰り返しイスラエルの民は神の奇跡的なめぐみを目の前に体験しながらも、反抗しつぶやく。
コラの不満は比較から生じた、「皆同じなのではないか。あなたは分を超えている」というものである。コラの批判は、モーセとアロンに対してではなく、彼らを指導者としてお立てになった神様に対する批判である。なぜ、このような人を指導者として立てたのですか?という。教会における地位は、神からのものである。モーセに逆らうのは、神が定められた権威に逆らうことである。
さらに、比較とは自分に与えられた権威の重要さを軽く思うことから生じる。彼らにも権威的務めが与えられ、「小さなことではなかった」。にも拘らず、与えられた務めを忠実に仕えるよりは、まさに自分には何も与えられていないかのように、不平を言う。比較による越権的不満は、破滅であり、人生の毒である。主はあなたに必要なものを十分に与えられているのである。
「友よ、あなたを生き返らせなさい」5月18日
袋井北教会の改革は、聖書が言う初代教会に立ち返ることからはじまる。今、エゼキエルの谷間に散らばっているいたく枯れた骨は、誰でもなくイスラエルという選ばれた民である。枯れた骨は死んだ意味である。選ばれた教会が死んでいる。異邦人でもなく神に愛された民が死んでいる。
生き返ることができるかという主の問いは、生かそうとする神の意図がそこにある意味である。神は生かす。死んだ者でも、神に愛される者は生かされる。では、どのように行き返えらすのか。
まず、「主の言葉を聞け」ということから始まる。死んだ骨に語りかけることは無意味ではないか。しかし主の言葉に力がある。主の言葉がそうさせるのである。主の御言葉が語られたところに、聖霊の息が与えられる。ただ生き返るだけではなく、そこには生きる活力が与えられたのである。御言葉に関心を持つことは、生きることにつながる。
その結果、つまり生き返った結果は、「私が主であることを知る」ことである。選ばれた民がまことに神が主であること、生き返らせてくださったのが、神、主であることを知るようになることである。そして今度は、民は「兵士」となったのである(10節)。力のある者となり、生きるまことの武具を持つものとなったのである。
教会が生き返るのは、まず御言葉の復興がなければならない。御言葉のリバイバルこそ、聖霊のリバイバルにつながるのである。今、袋井北教会に必要なのは、この二つの点である。
「教会を新たにせよ」5月11日
常に改革する教会は改革派教会の基本姿勢である。改革は本来の姿を取り戻すことでもある。
第一に、あなたこそまことの生きておられる神の一人子、イエス・キリストですという告白を取り戻すべきである。ピリポ・カイザリヤというこの世の論理が支配する所で、主は問いかける。あなたはキリストのみがまことの神であり、救い主であると告白できるのか。
第二に、ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するのか。イエスはペテロにキリストのみを愛することを求められる。これもあれもではなく、イエスのみを愛し、イエスのみで満足するのか。イエスが好きでどうにもならない思いがあるのか。 第三に、わたしの父が約束されたものを送る。だから、上から力を授けられるまで都にとどまることである。つまり、上から力を与えられることである。 従って、教会の改革は、キリスト・イエスのみがまことの救い主であるという告白、だからあなたのみに満足し、愛する献身的愛、そして聖霊、つまり神の力が与えられるところに、実現できるものである。
「内的革命」5月4日
今、我らに求められる第一は、一個人の内的革命である。リバイバルはあなたの内的革命から起こされる。聖霊に満たされるとは、聖霊に導かれて生きることであるから、人生の変化を意味する。クリスチャンとそうではない人との違いを、あなたは判るのか?再生の体験!!!を持っている人は判るであろう。
一番目は、考えの革命である。これは神中心に考え判断していくことである。この世のすべてを糞土のように思うことである。エサウとイサク;サウロとダビデとの違いである。このように考えて判断するのは、神に喜ばれることであるのか、と常に問い続けて生きることである。
二番目は、霊的な革命である。これは御言葉中心、つまり御言葉の体験、祈りの体験、証人としての体験である。特に御言葉の体験は、あなたを霊的に変えて、成長させるものである。
三番目は、生活の革命である。これは教会中心である。教会は神の御国の地上的形である。そこにはすべてが在る。神様は、なぜあなたを袋井北教会に導きいれてくださったのか?知っているのか?
「人生の革命」4月27日
信仰は聞くことから与えられる神の賜物である。信仰によって恵みを多く受ける人は神の御言葉をただ知識の蓄えではなく、実践によって現れる具体的な知識を持つ。
だから、人生の革命というものは真理を知ることから始まる。「キリストの故に、すべてを糞土のように思う」とは、パウロの人生の大転換を現す。キリストの絶大さをただ頭で知ったのではなく、全人格をもって知ったパウロの告白である。
あなたの信仰の程度が、あなたのめぐみの水準を決める。御言葉を知って信じる程まで、あなたの考えも変えられ、それによって神の恵みを具体的に体験できる。
信仰者は民主主義に生きるのではなく、神中心に生きる。私たちは神を変えて自分に合わせようとするのではなく、わたしが神の御心に合わせて従って生きる者でなければならない。従って、恵みは非常に具体的である。福音を知っても具体的に神の恵みを体験していないなら、常に知識のまま残り続ける。信仰の生そのものであり、生きるそれ自体である。あなたの人生の真中にキリストの信仰を据えなさい。
「新しい歌をもって進もう」2008年4月20日
神の救いの恵みによって、イスラエルの民が捕囚の地バビロンから故国に立ち戻ったときに、なぜ神の民であったにも拘わらず、異邦人の手の下で苦しめられ、悲しさを覚えなければならなかったのかという問いに深い反省と悔い改めに入れられた。そこで彼らは神殿を再建した。しかしゼルバベル神殿とも言われる神の神殿の再建後に、彼らの歴史はどうだったのか。一言で失敗であった。なぜか。彼らはなぜ失敗したのか。三つの点から言える。
1.感謝の回復がなかった。なぜ、救われたのかという自己確認がなかった。救われたこと、解放されてよかっただけで、なぜ回復されたのかを真剣に問わなかった。2.礼拝の回復がなかった。わたしを救い出してくださった神、解放の恵みに与らせてくださった神と出会いたい、つまり恵みを頂きたい切なさがなかった。3.神殿の回復がなかった。ゼルバベル神殿ができた。しかしまことの神殿回復はそこになかった。あなた自身が神の神殿であるその回復がなかったのである。「教会を建てる」のではなく、「教会を建てることのできる信仰者」になっていなかったのである。
感謝の回復、礼拝の回復、そして神殿の回復、この三つが伴われる時、「新しい歌」が口から流れ出る。心からの感謝と礼拝と神殿が再建できるとき、あなたの人生に、あなたの家庭に、あなたの教会にリバイバルが引き起こされるのである。人間の知恵によって教会成長や信仰を論じないで、まず回復せよ!あなたの感謝、礼拝、そして神殿をまず回復せよ!
「わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕う」 2008年4月13日
萱間の地で初めて礼拝をささげることを、神様はお許しになった。この地で礼拝を守る意味は、主の御心によるものである。
伝道開始40周年の2005年から具体的に導かれて、数多くの恵みを与えられたのは、新たなヴィジョンへの神の教会的召命による。それは、大きく二つの召命である。一つは、この地域、この日本、この世界に、主の栄光のリバイバルを引き起こす使命である。もう一つは、教会と福音が中心となる医療宣教である。
この二つの両輪は、キリストのお働きにおいても示されたものであり、キリストの福音による癒しと、人間の医療による治療による全人救済を目指すものである。言うまでもなく、医療宣教は福音宣教を基礎するものである。だから、第一に重要なのは、福音宣教であり、これ無しには、医療宣教は虚しいものとなる。従って、御言葉への正しい認識と知識、それを基礎とする正統な熱く燃え上がる信仰が柱となる堅実な信仰の共同体の形成を祈り求めるべきである。今日の礼拝が、新しい歴史への一歩であることを覚えよう。
「神のみ前にまかり出て、み言葉に聞く」2008年4月6日
ペテロとコルネリオの出会い、これがどうして起こりえたのでしょうか。文化、差別、歴史、人種、宗教などを超えて、彼らが出会えたのは、ただ一つ、御言葉を聞きたい切なさと、御言葉を聞かせたい切なさであった。一言で言えばイエス・キリストという福音の故であります。
イエスの故に、今までも大事であると思っていたことを捨てきることのできる信仰的勇気がそこにあったのであります。新しい歴史は、そのような犠牲の上に起こりうるものであります。
さて、新しい歴史への準備はどうだったのでしょうか。コルネリオは、親族や友人を招いて、神の御前にまかりでて御言葉を聞こうと待っていたのです。『待つ』ことは、ただぼんやりして待つことではなく、心からの切実な願望をもって待つことであります。渇きを覚える者は、水一杯がどれほどの恵みなのかを知ります。渇きを覚えていない者にとって、それは捨てるに等しいものであります。
御言葉は渇きを持つ者に潤いを与えて、疲れ果てて死んだ魂を生き返らせるのであります。御言葉への渇きはあなたの魂の特効薬であります。
「み言葉が伴われるまぼろし」2008年3月30日
信仰生活、教会成長、福音宣教などにおける最大の敵は、外に在るのではなく、内側に存するとよく言われる。これは、信心深く神を信仰していると思っている者が、実はまったくそうではなかったということが在りうるという警告である。
「神がきめたものを、清くないなどと言ってはならない」という主の御言葉が示す意味は重要である。己自身の知識、習慣、経験、または慣わしによって、物事を判断していく当たり前のような信仰者の生活方式に対する主からの批判である。
わたしたちは何十年間、言ってみれば何の不都合無しに、前進も後退もないままに、やってきたことが真理であるかのように錯覚する時がしばしばある。
激しい変化に耐えられない信仰者になってしまっているかもしれない。聖書は「激しい変化」の連続でもある。十字架の出来事、復活の出来事、聖霊降臨の出来事、そして2000年間の不断の福音宣教の出来事などは、まさに劇的な変化の出来事である。それを感謝しながら、そのようなことを求めないずるい信仰を脱皮して、あなたの信仰を目覚めさせよう。
「宥めるキリストに、贖われるあなた」2008年3月23日
キリストはなぜ、死んだのか?なぜ死ななければならなかったのか。それは、罪の故、神から引き離されていた私たちが、神との結合に受け入れられるためである(コロサイ1:21-22)。キリストの死によって神は罪人である人を恵みの内に回復させてくださった(ローマ5:10)のであり、神と罪人との間における敵意を取り除いたのである。
さらに、死だけで終わるのではなく、そこからの復活によって、私たちを生ける望みへと導いてくださった(Iペテロ1:3)。死によって、罪は廃止され、死は消滅し、復活によって、義は更新され、命は立て上げられた。だから、復活のお陰で、キリストの死の効力が私たちにもたらされる。さらに、キリストの復活は、私たちが罪に死に、新たな命が与えられ、この命は誰も侵すこともできないものとして、永遠の命であることの保証、担保となったことである。従って、キリストの復活は、私たちの復活の最も確かな保証であり、担保である。
最後に、キリストの死と復活は、彼がまことの神で在られることへの確認であり、証しである。
「あなたに足りないところ」2008年3月16日
主イエス・キリストによって用いられる人は、選ばれた人であるが、それこそ様々である。人種も、職業も、国も、民族も、関係ない。コルネリオはユダヤ人ではなく、ユダヤ人の支配していたローマ人であった。所謂異邦人と言われる人であったが、「信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、たえず神に祈る」ひとであった。これらが届いて、神に覚えられたのである。神に覚えられた人は、必ず救いの祝福に導かれる。特に、コルネリオが「午後3時ごろ」に主の御使いから言われる。教会が定められた祈り会において、主が現れたのだ。主が御自分の教会を愛しておられるから、その教会において語るのである。
そして、主は「ペテロと呼ばれる人を招きなさい」とおっしゃる。何という不思議であろうか。コルネリオのように信心深く、敬虔で、施しと祈りを常とする人に、もうこれ以上言う事なし!と言ってよいのではないか。あなたのそれは完璧だ、と言われない。だからあなたは救われたとも言われない。なぜ、彼にまた、「ペテロ」というものが必要であろうか。
御言葉であるキリストがなかったのである。キリスト無しの祈り、敬虔、施し、そして信心深さは、神に覚えられ、キリストへと導かれる手段に過ぎないことがココで分かる。キリストが無ければ、そのようなものは、実体のない虚しいもので終わる。あなたの救いのめぐみは「キリストのみに」ある。
最後に、コルネリオの即刻的従順に目をとめるべきである。キリストへのめぐみには、明日は存在しない。「今!」のみである。今がめぐみのときである。
「イエス・キリストがあなたを癒す」2008年3月9日
使徒行伝には多くの奇跡や癒しが記されてある。その根本的な理由は何か。なぜ主は奇跡や癒しをお与えになるのか。その答えは「みな主に帰依した」や「多くの人々が主を信じた」ということのためである。主の福音が宣べ伝えられ、主の教会が形成されていく時に、特別に主がそのようなめぐみの出来事を与えてくださる。
ところで、歴史の中で、今も奇跡や癒しは行われているであろう。そのようなものと、聖書が言うそれと何が違うのか。この答えも同様に、主に帰依する人、主を信じる人が与えられるのか否かである。
ではなぜ今の奇跡や癒しには、主に帰依することが伴われないのか。この重要な問題の答えは、「キリストがあなたを癒す」ことである。キリストご自身がお癒しになるから、分かり易く言えば、その癒され起き上がった人を見れば、そこからキリストが見られ、読み取られ、感じ取られるのである。キリストがハッキリと現れるところが、聖書が言う癒しなのである。キリストが現れるのは、人を主に「帰依」させる十分な力となる。キリストのみに栄光あれ!
「こうして教会は・・・」2008年3月2日
「こうして教会は、…平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊に励まされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」。「こうして」とは一つの結果を現している。何の結果か。それはサウルの回心、アナニヤの従順、そしてバルナバの世話であると言える。この三人を教会の歴史に浮き彫りさせたのは、他でもなく神の聖定による摂理である。この神の摂理に、三人は結果的に従順に従ったのである。「こうして」とは、神の摂理への従順の結果である。
「こうして」、つまりその結果、平安が保たれる。神との関係が深められたことである。平安は神との関係による。その関係がしっかりと結ばれるとき、言うまでもなく、わたしたちの基礎はかたまる。神との正しい関係無しには、基礎は据えられない。そして、この土台から沸き起こるのは、神への恐れと聖霊の励ましである。この恐れに何も付け加えずに、そのまま受け入れよう。わたしが神を恐れる時、逆に神はわたしを励ましてくださる。恐れのないところに、神のご臨在はないであろう。そしてその総体的な教会の姿は人々への伝道になることに他ない。
「第一人者のための、第二人者の喜び」2008年2月24日
パウロが伝道者として神に選ばれて、イエス・キリストとの劇的な、しかし一方的な出会いによって、キリストの者となった。アナニアによる、多分3年以上の信仰的訓練を通して、パウロは宣教的説教を宣布することができるようになった。それにしても、教会の承認が必要であることは言うまでもない。エルサレムに上り、すでに使徒となった者たちによる承認を求めるパウロであるが、誰も認めようとしない。
そこに主はバルナバを選んでおられる。このバルナバ、主の霊と知恵に満ちた穏やかな人である。パウロの伝道には、アナニアだけではなく、バルナバをも選ばれてあった。バルナバによがって、パウロはエルサレムの教会から認められる者となった。
もし、アナニアと同様に、バルナバがいなかったとすれば、パウロの伝道人生はどうなったのか。バルナバは、パウロを立てる人であり、それは教会を立てることであり、それはさらに神の宣教を立てることであった。パウロのような人生もよいのであるが、バルナバのように、人を立てる人生もよいでしょう。第二人者になる喜びを味わいましょう。
「イエスはキリスト、神の子である」2008年2月17日
パウロは、キリストと出会って後、アナニアの導きと指導の下、アラビアに行った。アラビアの何処なのか、そこで何をしたのか、幾日ほど滞在したのか、分からない。推測してみると、アラビアのシナイ山で、約40日間過ごしたのではないかと思われる。モーセが律法を与えられ、エリヤが祈り、キリストが誘惑されたところ、まさに律法の約束が与えられた所で、律法の成就の福音をどのように宣べ伝えるのかを祈り求めたに違いない。
ダマスコに帰ってきて、約3年間そこの教会で信仰生活をした。福音のみ言葉への研鑽、約束を待っていた者が、その約束がすでに成就された福音を伝える者として持つべき御言葉の知識を学んだのである。「ただちに宣べ伝える」ことは、そのようなことを必要とされたのである。3年の御言葉への研鑽は、聖書の著者としての基礎を造るものでもあった。
彼の口から最初に発せられたのは、イエスこそ神の子であるということであった。パウロ自身が今まで持っていた神の子に対するすべての期待を、イエスから見出したのである。旧約を通して、キリストを見ることができた。キリストを通して、旧約を理解することができたのである。イエスこそまことの神の子、キリストであった。この一言を伝えるために、パウロは3年以上の年月を費やした。それは、頭で知るものではなく、心に注がれた主との出会いと恵みを、頭において確信する作業でもあった。心にある熱い信仰を、他の人に福音として伝えるためには、そのような訓練が求められるのです。
「元どおり見えるようになり、元気を取り戻しなさい」2008年2月10日
パウロの偉大さはいくら言っても足りない。それほど神に愛され、用いられた人であっても、彼にはアナニアが必要であった。主はアナニアを通して語り、聖霊を与え、目から鱗を落とさせた。主は直接語らない。主のお体なる教会を通して語られる。
アナニアを通して、主はパウロの目から鱗を落とさせた。それで元どおり見えるようになったという。しかし元どおりであるが、仰ぎ見るようになった。イエス・キリストがまことの神として仰ぎ見られたのである。今まではそれが見えなかった。
そして食事を「取った」。まさにそれは命を取ったということである。単なる食事を食べたのではなく、命を取る、命を食べる日々となった。主のみ言葉こそ、まことの命のパンである。それを取るようになった。
結果的に、元気を取り戻した。それは強力な力に在って、力付けられることである。オリブ山でイエス様が祈られた時、み使いが力づけたように、外から力付けられる恵みに与る。パウロの出来事は、あなたにも起こったはずである。今も主はみ使いを遣わして、あなたを力付けておられることを信じますか。
「追いかける、逃げる人間」2008年2月3日
神様はニネベの罪をご覧になり、ヨナを遣わして裁きの言葉を告げさせようとされる。しかしヨナは神に拒み逃げる。しかし、神は彼を救い出し、二度目に、臨まれる。不従順であり、拒み続けるヨナを再び探し求める神である。神は選ばれた民を見捨てるお方ではない。常に赦して、受け入れてくださるお方である。
ヨナはたった五つの言葉で、ニネベの民に告げる。それも一日だけ。しかし、その結果、ニネベの住民全体が悔い改めて、神に立ち返り、救われることになる。
伝道の困難な時代に生きているとよく言われる。しかし、伝道には二つの側面が存在する。一方では、伝道は神がなさる神の働きである。伝道の結果は神によって生じられる創造的なものである。他方では、その神の業である伝道に、ヨナが必要であったことである。
伝道は、神のみわざであるが、その神はヨナを用いて、それを実行される。神は今日も、あなたを必要としておられる。神は、あなたの告げる言葉を通して、その結果を生じさせる。宣べ伝える者がいなくて、どうして聞くことができるだろうか。
「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」2008年1月27日
「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」、これがパウロの福音であった。わたしの福音とは、非常に主観的な表現である。信仰とは、確かに主観的な面を持つ。後半の「いつも思う」ことは、主観的な行動である。自ら何かをしようとする自発的な行為は、聖書において求められる重要な信仰である。実に、私たちの信仰生活の問題の一つは、その主観性、つまり能動性が乏しいという事である。求めること、門を叩くことは、あなた自身がしなければならない主観的行動である。
ところで、その「わたしの福音」とは「ダビデの子孫として、よみがえった」という客観的事実に基づくものであることが言われる。信仰の主観性は、聖書的事実を根拠にする客観的出来事に依拠しなければならない。信仰の「霊的」とは、聖書的根拠を無視する行為ではない。聖霊充満は、聖書のみ言葉による充満であるからである。パウロの私の信仰は、客観的に、歴史的根拠に基づいたイエスを、主観的にいつも思う能動的信仰であったのである。
「キリストにある恵みによって、強くなりなさい」2008年1月20日
本文には、強くなることとゆだねることが命令形として語られている。キリストに在る恵みに在って強くなることは、キリストを離れても強くなり得るという前提があるかのように見える。そうではなく、キリストに在って強くなることが求められている。キリストを離れても、強くなり得ることができるかもしれない。それはあなたから見てそうであって、キリストから見てはそうではない。キリストから見て、強くなることが求められる。
次には、ゆだねることにつながる。牧師であり教師から聞いた信仰の教理を、別の人にゆだねることである。そうすることによってゆだねられた人が、また他人にゆだねることができる。伝道の原点が教えられている。委ねことは、信頼を基礎にする。信頼される人に、福音が委ねられる時、福音が広がる。
さらに、キリスト者、特に伝道者は、兵役、競技者、そして農夫として譬えられている。司令官である神のみに従うこと、規定を守って協議する聖書中心であること、そして労苦することによってその産物を最初の与えられる農夫は、聖霊の実を与えられることである。神中心と聖書中心、そして聖霊によって喜びの実りが与えられる生活が求められている。強くなり、そして福音の教理を委ねていくことは、兵卒・競技者・農夫のように神のみに仕え、聖書に忠実であって、聖霊の喜びに与る事である。主があなたをそのようなめぐみに呼び出されておられることを感謝しましょう。
「良い忠実な僕よ、よくやった」2008年1月13日
主人は僕たちにそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントとまったく量の違うお金を渡された。そして5タラントと2タラントの僕は従順にその賜物をもちいて、2倍にして主人に返し、主人を喜ばせた。しかし、1タラントの僕は賜物を地に隠し、主人から受けた「賜物」を大事に思わなかった。その上自分が賜物を用いなかったわけを主人のせいだとまで言う。ここに多くの罪がある。主は私以上に私を知っていてくださり、私の能力に応じてふさわしく賜物を預けて下さいます。預けて下さるのは私を信頼してくださるからであり、愛してくださるからであります。
この賜物を私たちがこの世における目的 −主の福音を宣べ伝えること― に用いて働いていくならば、もっと多くの祝福と恵を増し加えていって下さるでしょう。主なる神様はそういうお方です。共に私たちと働いて下さいます。
今年、私たちの教会は全体で一つの働きができるよう、一人ひとりに役割が与えられました。この年末、「良い忠実な僕よ、よくやった。・・・多くのものを管理させよう。」と共に神様から祝福されましょう。(説教者:石飛)
「たましいを完全にし、不動にする錨である望み」2008年1月6日
2007年1月6日新年感謝礼拝は、昨年守られた事を感謝、今年与えて下さる神様の恵みを先取りして感謝と讃美をささげる礼拝であると言うことができる。特に、今年、主が私たちに与えて下さろうとすることに恵みに信頼していきることが何より重要である。
主の約束を信頼して生きることは、希望を持って生きることであり、パウロの言葉で言うなら「目標を目指して走る」(ピリピ3:14)ことである。今年のあなたの人生の目標、家族の目標、教会の目標は何でしょう?それを最後までしっかりやり通すものであってほしい。本文には、「約束」、「誓い」、「必ず」、または「望み」などの言葉が頻繁に出ている。それは、神様があなたに約束を与えて、それを必ず成就してくださると誓われたことである。それを望むことこそ、真の望みである。
だから、あなたの人生の「錨」はその望みである。この望みこそ、あなたの魂を今年も「安全にし、不動にする」ものであり、生きることの「力強い励まし」となるものである。今年、袋井北教会にとって、不動で、力強い励ましとなる望みは何であるのか。それの実現のために、愛する兄弟姉妹と一緒に一生懸命にやっていこう。