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コラムのフォーラム(Forum of Columns)
「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」 / ホセア書4章6節
今日の教会の信仰と神学に対する一言
2009/08/09 更新 使徒行伝15章6-11節による講解説教人が救われるのは神のめぐみのみによるものである。今、使徒行伝の14-15章の問題は、神の恵みによる救いを人間がどのように受け止めるのかという問題である。
人は歴史の動物であるから、歴史を重んじる生き方をする。昔からやってきた伝統、習慣、あるいはならわしを大事にする。しかし、時にはそのような類から離れなければならないことが起こってくる。その時、人は戸惑うのである。その当惑の安心な解決は、今までやってきた通りにすることである言われる。
しかし、神の歴史、神の救いの歴史は流れるものとして、時には人知を超えたものとして現れる。その神の働きはもちろん、聖書の啓示されているものであるから、受け入れればよいものであるが、人間はならわしを大事にしてしまう。
今、あなたの考え、教理、そして伝統というようなものが、あなたを神の恵みから突き放しているかもしれない。どうでしょうか?あなたはもしかしたら、今神から与えられた導きよりも、いつの間にか自分の頭の中で一つの概念として植え付けられているものに縛られているのではありませんか。
袋井北教会は変わらなければならない。変るべきときである。どのようにでありましょうか?使徒行伝を通して、主が与えられる導きに従って変ることである。主は、今、あなたがすべての先入観から脱皮することを望んでおられます。2009/08/08 更新 わずらいをかけない恵み「人たちに、わずらいをかけてはいけない」(使徒行伝15:19)。人が救われるのは神の業です。救いのためにあなたが負わなければならないすべてのくびきはキリスト・イエスが負い、処分してしまったからです。だから、私たちに残されているのは恵みによって信じることです。今日も、わずらいと心配なしに、あなたの信仰によってあなたが恵みの喜びに満たされることを祈ります。2009/08/01 更新 教会における兄弟姉妹の一致天地の造られる前に、私たちはキリストにあって選ばれました。ここに教会の基礎があります。教会はキリストの体であるという聖書のみ言葉は、キリストにあって選ばれたことにおいて理解すべき主の恵みです。恵みによるものであり、信仰によるものであるからこそ、教会である。
この教会の一員であるわたしたちは、以前は不従順の子であり、空中の権を持つ君に囚われたものでありました。しかし、今は主にあって生きるものとなったのです。
では、なぜ万世の前にキリストにあって選ばれたのか?選びには理由があり、目的があります。その目的のために、実に神様は、私たちにそれぞれの賜物を与えてくださり、その賜物において教会の肢体となるように導いておられる。
その肢体の一つ一つ結び合わされて生きる教会となったのです。生きることは、病がないときに、よいものとして成長します。特に、体の内に病があるとすれば、成長もなく、それは実に死んだようなものとなります。だから、成長は「あなたの内なる人を強くして下さる」神様によって可能です。内なる者が健康である生き方がよいのです。その恵みが私たちに必要です。体の内なる人が健康であるために、健全な精神と知識が必要です。私たちに今日求められるのは、内なる人の健康です。そうであれば、教会は成長するのです。成長がなければ、その教会は病に罹っているか、あるいは死んでいるのです。2009/06/22 更新 魂よ、目をさましなさい!今、私たちの日本の教会に切実に必要なのは、何でありましょうか?正しい神学でしょうか?信仰でしょうか?交わりでしょうか?学びでしょうか?数え切れないほどの言葉を並べることができます。勿論、それぞれ必要でしょうし、必要だと思います。しかし、しかし、今、日本の教会には、少なくとも、この私たちにから見れば、主の前に馬鹿になることであると思います。主は何事でもすることができる。心配しないで、信じることです。それは、御言葉による復興です。御言葉によるリバイバルです。そして祈りと讃美による主の介入を求めることです。今、あなたの計算、理性、学問、心配、そしてあなたが作り出した信仰を捨てなさい。そして、あなたの魂のリバイバルを求め祈りなさい。2009/04/26 更新 主と共に生きる会堂司ヤイロとイエス・キリストの出会いの動機、何故出会えたのか?幼い娘を生かすために対面も捨てる。当時の会堂司はユダヤ教に徹底的に献身した人、だからイエスに尋ねることは考えられない。そのような人がイエスの前にひざまずく。イエスと一緒に出掛ける新しい歴史の始まりである。せっかくイエスと一緒に始まった人生の歴史なのに道中で悲劇が起こる。12年間、長血を煩った人を癒すということ。イエスは途中の出来事も大切にされる。信仰とは目に見えるままに行なうことではなく主の約束された通りに行なうことである。ヤイロはイエスが来て苦しむ娘を癒して下さると信じて従ったのである。希望が消えうせ周囲の人々が諦めるように勧めるその時、信仰を持つ人とそうでない人が区分される分岐点となる。また不可能な状況においても立ち上がらせる救いの信仰の勧めである。私たちはイエス・キリストを信じて生きる存在です。イエスが共にいても問題は起こる。大事なのは「恐れないでただ信じること」である。問題はいろいろ起こるが、しかし、主は必ず最後に問題を解決して下さる。最後まで見守って下さり支えてくださる憐れみ深いお方なのであります。鈴木和子長老
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